2012年04月23日
しかもこの義弟の挿話は、ルレの事件とついに交わることなく、ベラミー自身の隠された過去を浮き彫りにしていく(いかにもシャブロルらしい、物語の中心から遠ざかろうとする「遠心的」な、あるいは「多焦点的」な語りだが、この点もむろん、ミステリー映画としてはきわめてイレギュラー)。
突然やって来て、怪しげな儲け話を義兄に持ちかけるジャックは、まともな仕事につけない前科者のダメ男で、いつも浮かぬ顔で愚痴ばかりこぼしている、いわばベラミーの「負の分身」だ。ところが終盤、ベラミーはジャックをめぐる意外な過去を妻に打ち明ける。そしてやがて、さらに驚くべき出来事が起こる……。
このジャックの挿話が重要なのは、それによってベラミー自身が、法や正義の番人たる警視という職業的役割の外に追いやっていた別の自己/アイデンティティを、はっきりと自覚するようになる点だ。
いってみれば、ベラミーは素行のよくない義弟の存在によって、自分の心の奥底の<社会化されていない自己>、ないしは<自己の二重性>に気づくのである。もっとも、ドパルデューはそうした場面でも、けっして深刻めかした大芝居をせずに、抑制された演技で押し切っている。これまた『不貞の女』(1968)、『肉屋』(1969)、『夜になる直前』(1970)、『石の微笑』(2004)といった傑作同様、『刑事ベラミー』を最良のシャブロル作品の一本にしている、大きなファクターのひとつだ。
結局のところ、ルレの「事件」の顛末(てんまつ)と同じく、終盤のベラミーと義弟ジャックをめぐるドラマも、善/悪、強者/弱者という二分法を危うくするような、アンチ・ミステリー的とさえいえるシャブロル的な展開をみせるのだ。
要するに『刑事ベラミー』のシャブロルは、『嘘の心』(1998、これまた大傑作)や『刑事ラヴァルダン』(1985)がそうであったように、警察官による真相解明に力点をおかず、犯罪ミステリーをあくまで舞台装置、ないしは仕掛け(もっといえばダシ)として使い、人間が心の奥に飼っている得体のしれぬ何かを、「曖昧なまま精妙に」あぶり出すのだ。いったいシャブロル以外の誰に、こんな芸当ができるだろう。
なお、前記『肉屋』や『石の微笑』、あるいは80年代の最高傑作『ふくろうの叫び』(1987)を見れば明らかなように、シャブロルは<死体>をどう見せるかについても、細心の注意をはらった。
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