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沢尻エリカの、沢尻エリカによる、沢尻エリカのための映画『ヘルタースケルター』

松谷創一郎 ライター、リサーチャー

 岡崎京子のマンガ『ヘルタースケルター』は、美容整形をして人気ファッションモデルとなった女性を描いた物語だった。1996年まで連載されたこの作品が、90年代中期以降のガーリーフォトムーヴメントを牽引した写真家の蜷川実花によってついに映画化された。音楽は、80年代前半に戸川純をヴォーカルに据えたユニット「ゲルニカ」の上野耕路。パッヘルベルの「カノン」に詞をつけた戸川純の「蛹化(むし)の女」も挿入歌として使われている。

 岡崎京子、蜷川実花、上野耕路、戸川純──この映画にかかわったこうした固有名詞は、ひと昔前を生きたサブカル少女(/少年)たちにとっては、とてもなじみ深いものだ。それは1974年生まれのアスミック・エースの宇田充プロデューサーのセンスが発揮された結果の座組でもあるのだろう。

 もちろんそれだけでなく、浜崎あゆみが2001年に発表した「evolution」も挿入歌として使われている。公開後、この浜崎あゆみの起用は、岡崎京子ファンの元サブカル少女からしばしば批判の対象となっている。

 それは、過去に幾度も見られた光景でしかない。不思議ちゃんがギャルに敵意をむき出しにする、とてもわかりやすい構図だ。まさに96年、アムラーはシノラーのことなど気にも止めていなかったが、同じ頃ファッション誌『CUTiE』では「コギャル撲滅キャンペーン」が起きていた。今回の浜崎あゆみ批判という現象は、いまだに自意識問題から解き放たれない元サブカル少女のその後が見えてくる。

 そもそも、美容整形を繰り返す主人公・りりこのイメージに近かったのは、90年代後半にブレイクした頃、しばしば「サイボーグ」と形容された浜崎あゆみだった。岡崎京子の言葉を借りれば、「ぼくたちはなんだかすべて忘れてしまうね」──。

 『ヘルタースケルター』の単行本が刊行された2003年とは、当時20歳だった金原ひとみの小説『蛇にピアス』が発表された年でもある。この作品は、19歳の女性が舌を半分に切り、全身にタトゥーを入れるなど、身体改造に惹かれていく姿を描いた物語だった。テーマ的には『ヘルタースケルター』と遠くない。

 そして、この作品が映画化されたのは2008年のこと。監督は、蜷川実花の父親で演出家の蜷川幸雄だった。映画『ヘルタースケルターのクレジットで金原ひとみが「協力」としてクレジットされているのも、(何を協力したかは知らないが)まぁわからなくもない。

 なんだか、いろいろな人物や作品が繋がっていく。しかもそれは、映画文脈だけにまったく収まることはない。80年代から2000年代前半にかけての、日本の女性向けサブカルチャーの中心となったものがさまざまに放り込まれている。

 が、しかし──。

 この映画からそうした印象を受けることは少ない。沢尻エリカが、岡崎京子も蜷川実花も、すべて無効化するかのような存在感を発揮しているからだ。これは、沢尻エリカの、沢尻エリカによる、沢尻エリカのための映画以外のなにものでもない。

■バケモノ・沢尻エリカ

 主人公のりりこ(沢尻エリカ)は、全身整形を施され、トップモデルとなる。若き日の事務所の社長(桃井かおり)を模したりりこは、そもそも主体性を剥奪された存在だ。そして、その改造によって得られた“美”が、さまざまなメディアに露出されて広がっていく。主体性を剥奪された存在が、その代償として新たな主体性(=人気)を獲得していく構図だ。

 しかし、りりこの整形は日に日に崩れ、そのたびに再手術を余儀なくされる。機械のようにメンテナンスを必要とされる、まさに「サイボーグ」といった存在だ。

 たしかに原作が連載された95~96年の段階では、このモチーフは斬新だったかもしれない。当時は、コギャルが自らの記号性を操って街を闊歩していた頃だ。

 しかし、残念ながら人体改造といったモチーフは、いまやなんとも古く見える。それは、2008年に『蛇にピアス』が映画化されたときにも感じられたことだった。

 2000年代中期以降とは、インターネットが進展し、誰もが能動的に露出できる時代だ。言うなれば、有名人と素人の境界が曖昧となり、だれの身体も容易くメディア化する。Twitterでは胸の谷間を見せるブームが定期的に生じ、ニコニコ動画では承認欲求の塊が自らの性をエサにアイドル気分を味わっている。女性たちの自意識を簡易に埋めるメディアは、いまや無数にある。

映画『ヘルタースケルター』の舞台あいさつで=2012年7月14日

 もちろん、りりこのようなスターは2000年代中期以降にも存在する。しかし、そんなスターがたった一人のユーザーにTwitterで返信し、また、「会いに行けること」をテーマとしたアイドルがトップに君臨するのが現代日本だ。それを踏まえると、雑誌やテレビを中心としてりりこの人気が明示されるのは、現代の描写としてはあまりにも貧しい。それは、96年──つまりビフォーの時代の話でしかないからだ。

 この映画には、こうした作劇や時代考証の問題が無数に存在する。そもそも脚本が原作に寄り添いながらも、現代を舞台としている時点で、かなりの無理が生じている。登場人物がiPhoneを使いながらも、渋谷にルーズソックをはいたコギャルがいる時点で、時代性を無効化する意図も見えなくはない。が、そうした社会風俗は、簡単に無効化することなど当然できないからこそ風俗であり流行なのだ。

 が、そうした問題をどうでも良いこととして感じさせてくれるのが沢尻エリカの存在感だ。

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