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“伝説のテロリスト”の半生を描く傑作長編『カルロス』(中)――めくるめく疾走感    

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 ところで言うまでもなく、カルロスのような怪物的な男の人生や、その複雑怪奇な背後関係を映画にするのは、「とんでもなく」困難だっただろう。

 たとえば構想から脚本作成段階における、おびただしい資料や情報の収集・取捨選択・アレンジのプロセス。それだけでも、アサイヤスらは大変な“持久戦”を強いられたにちがいない……といったことが頭の中にちらつき、実際に本作を見るまでは正直、私はちょっと不安だった。膨大な情報を処理しきれないまま、消化不良ぎみに終わる長尺なのでは、という予感がかすめたのだ。

 が、『カルロス』はそんな杞憂をぶっ飛ばす映画だった。――前回でも触れたように、5時間30分の長さをまったく感じさせない、「とんでもなく」スピーディーな映画、いってみれば007シリーズやハリウッドのスパイ活劇をもっとずっと洗練させ、徹底的に贅肉をそぎ落とした映画、『カルロス』はそんな“超スマート”なフィルムだった。

 さらに本作は、さまざまな情報機関と接触し監視網をかいくぐり、アジトに潜伏しテロを計画するカルロスらを、息づまるような緊迫感で描き、他方で前述の極左急進グループの一派、ドイツ革命細胞(RZ)のメンバーが、「敵」=西側諸国との客観的な力関係が見えなくなって暴力を自己目的化して破滅していく悲劇などを、あくまでクールに描く(後述)。

 『カルロス』ではまた、結局のところ、国家ないし非国家的組織の傭兵/非正規軍として使い捨てられるテロリスト・カルロスの宿命や、あるいはPFLPであれ民族イスラーム戦線であれ、あらゆる「抵抗組織」が自らの打倒すべき敵であるはずの国家を縮小コピーしたような権力構造を持ってしまう必然性が、冷徹に突き放したタッチで描かれる(そうした組織の強権的なトップ・ダウンぶりは、たとえば前記PFLP過激派のリーダー、ワディ・ハダド<アッマード・カーブル>がカルロスに言うセリフ、「お前の仕事は命令に従うことだ。私が人の生死を決めるんだ」にも、端的に示されているだろう)。

 ともあれこうして、アサイヤスはカルロスを焦点化しながらも、彼の内面を「心理的に深く掘り下げる」のではなく、彼をとり巻く政治的情勢や人間関係を、あくまで<ダイナミック/動的>に描いてゆくのだ。

 ではなぜ、『カルロス』はかくもドラマ展開が<早い>のか。

 まず、けっして軽くはない題材を“重く”見せすぎない、手持ちカメラの多用と高速カッティングこそ、『カルロス』の最大の勝因だ。とりわけ銃撃や爆破の場面では、パパパッと歯切れよくカットが割られ、映画のスピードが一気に加速する。ゆえに見る者は強いショックを受けつつも、過度の残酷さ、重苦しさを感じることなく、次の場面へとスムーズに意識を切り替えられるのだ。

 たとえば第1部の中盤の、パリのサンジェルマンの画廊から出て来たカルロスが、舗道を歩きながらユダヤ系ドラッグストアの前にさしかかると、ポケットから取り出した手榴弾を、空き缶か何かを捨てるような何げない仕草でポイと店内に投げ入れる場面。

 歩くカルロスの姿をやや引いた位置から追っていた手持ちカメラは、そのまま歩き去る彼をフォローする。直後、手榴弾の爆破音がフレーム外にとどろく(このシーンでも、カットは細かく割られる)――。

 ふつうのアクション映画なら、投げこまれた手榴弾が爆破するところを、店内が破壊されるパニック・シーンとして派手に描くところだ。が、アサイヤスはそれとは逆の一種の間接描写で、手榴弾爆破を<走り抜けるように>簡潔に描く。結果、見る者は<鈍い衝撃>を受けつつ、痛快ささえ覚えるのだ(カルロスによるこのユダヤ系ドラッグストア爆破は、反イスラエル闘争を展開していた親パレスチナの武装組織・日本赤軍を支援するためのテロ<1974年9月>)。

 また第2部で描かれる、1977年12月、前記西ドイツの極左組織・ドイツ革命細胞(RZ)の“血に飢えた”女性闘士ナーダ(ジュリア・フンマー)が、仲間と車でフランス=スイス国境を越えようとするシーンでも、アサイヤスの高速カッティングが冴えわたる。

――スイス国境警官の検問を受けたナーダは、無謀にもいきなり車のドアを開け警官の一人を撃ち、

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