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[1]プロローグと盛り場・風俗篇

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

【プロローグ】

――エロ・グロ・ナンセンスを語ることは、マス(大衆)を語ることである。そして、マスこそが世の中を動かしていく

■不安心理から生まれるエロ・グロ・ナンセンス

 未曾有の東日本大震災によって、日本列島は根底から揺り動かされた。福島の原発事故がかさなった上に、折から世界をおおう深刻な経済不況が加わり、社会全体に大きな不安心理が生まれている。

 戦後日本が初めて経験する事態だが、じつは昭和初期の日本にも似たような不安心理が横溢し、時代閉塞感や刹那的な気分が社会をおおった。そんな空気を背景に「エロ・グロ・ナンセンス」が大流行し、昭和初年から6、7年ごろまで新聞雑誌には毎日のように「エロ」「グロ」「ナンセンス」という言葉があふれた。

 東京・銀座を中心にハリウッド映画の男優のファッションを真似たモボ(モダンボーイ)や断髪でロングスカートのモガ(モダンガール)が闊歩し、女性のサービスつきのカフェーが東京都内だけでも一時は8000軒に達した。

 カフェーの大増殖に象徴されるように、震災後の新しい風俗・文化が、既存の世相・風俗を圧倒する勢いで燎原の火のようにひろがったのである。大衆娯楽はもちろん文学も映画、演劇もこの新しい波に洗われた。

 根っこは第一次世界大戦前後の軍需景気にわいた大正時代にあったものの、じっさいにエロ・グロ・ナンセンスの花が咲き誇ったのは、昭和の2、3年ごろからで、昭和7年にピークをむかえる。

 土壌になったのは、第一次世界大戦の大量破壊のあとに生まれた「モダニズム」である。モダニズムはヨーロッパではまず前衛的な芸術・文化運動としてはじまり、やがてアメリカに伝わり、さらに日本に流れ込んだ。

 モダニズムの特徴として、「スピード」と「テンポ」「セックス」がある。スピードの象徴は自動車であり、テンポの象徴はジャズやチャールストンなどのダンスであり、セックスについてはいうまでもない。そこにアルコールとスクリーン(映画)が加わり、不安心理がいわば肥料となりエネルギーとなって、一大ブームになったのである。

 この流行は軍国主義の台頭とともに潰(つい)え、一時的な徒花に終わったものの、じつは戦後の焼け跡で息をふきかえした。敗戦直後は「カストリ文化」としてふたたび花を開き、やがて朝鮮戦争の特需のあとに到来した高度成長という土壌のもと、戦後日本を象徴するテレビのなかに姿を変えて咲いた。

 エロ・グロ・ナンセンスの洗礼をうけた若者が、その後、脚本家やバラエティ作家、ディレクター、プロデューサーおよび出演者等となって、創生期のテレビ制作の中枢を担ったのである。

 歴史は繰り返す、とよくいわれるが、政治・経済のことはさておき、文化や社会現象については、社会が行き詰まり出口の見えない閉塞感が漂うと、必ずといってよいほどエロ・グロ・ナンセンスの文化が生まれる。そして、それが一種の腐葉土となって、つぎの新しい文化を醸成していく。

 関東大震災後の昭和初期と東日本大震災後の今と、世相をつぶさに検証していくと、驚くほど似ている点が多い。両者に共通しているのは未曾有の大震災と世界的な経済大不況である。

■エロ・グロ・ナンセンスは時代を牽引する

 人々の深層心理の部分で案外重要な働きをするのが、人間(動物)の二大欲望である「食欲」と「性欲」である。いつの時代もこれが多くの人間の最大の関心の的であり、ここに特化したり密接にかかわりあったものが、次の文化の重要な担い手になり、ビジネスとしても成功の確率が高い。

 関東大震災後、浅草の劇場からお客の足が遠のいた。起死回生をはかるため、興行主や劇団首脳等が考えたのはフランスやアメリカではやっていたレビューである。浅草でカジノ・フォーリーが少女たちに裸の脚を露出させて踊らせたところ、爆発的人気をよび、他の劇場にもまたたくまにひろがった。

 こんなエピソードがある。開設当初、カジノ・フォーリーは閑古鳥が啼いていたが、あるとき踊り子の一人の衣装がずり落ちそうになった。踊り子はあわてて衣装をひきあげたが、裸体の胸が垣間見えた。これがきっかけで、「カジノでは×曜日に踊り子がズロースを落とす」という評判がたち、以来観客が急増した。

 10代の少女たちが集団でエロティックに腰を振り振り歌い踊るレビューが、すでに昭和初期の東京ではやり、喝采をあびたのである。

 平成の今、エロティックに腰を振り振り踊り歌う韓国のKーPOPの「KARA」や「少女時代」それに日本の「AKB48」等が大変な人気をよんでいるが、彼女たちの元祖はまさに浅草のカジノ・フォーリーにあった。

 2009年の秋、テレビドラマでもっとも話題をさらい視聴率の高かった番組は『JINー仁』(TBS系)であった。2011年もシリーズ2弾が放送され好評を得ている。脳外科医が幕末にタイムスリップして展開する物語で、原作は漫画だがエロ・グロ・ナンセンスの要素をすべて含んでいる。ホルマリン漬けの胎児、幕末に脳外科手術を実施する際のクローズアップされる患部の映像等々は充分グロであるし、遊郭の花魁はエロそのものであり、タイムスリップはアンチ常識、つまりナンセンスである。

 不安心理にあるマスの潜在的欲求に、うまく応えたからこそヒットに結びついたのである。『ワンピース』など若者に人気のある漫画やアニメの多くがエロ・グロ・ナンセンスに満ちていることはいうまでもない。

 巷には抗菌製品があふれていて黴菌(ばいきん)は悪いものとしてこれを退治しようとする傾向が強い。しかし、清潔志向はかえって人の抵抗力を弱める、と寄生虫学者の藤田紘一郎氏が語っている。ウォシュレットでお尻をきれいに洗うことで、肛門周辺から体によい菌まで洗い流してしまい、かえって健康の阻害要因になるという。

 エロ・グロ・ナンセンスは人体にとっていわば黴菌のようなものである、といっても過言ではない。「きたない」などといって一概に排除すべきものではなく、ときに良い働きもする。

 本稿では、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの諸相を、盛り場で狂い咲きの花のように咲き乱れたカフェーを手始めに、モダニズムにあふれた演劇・映画、時代の尖端をいったモガ・モボから、雑誌・広告、純文学・探偵小説、猟奇犯罪編、エロ・グロ・ナンセンスの歴史的系譜等々の実相を、具体例をひきながら描いていきたい。

【第1章 盛り場・風俗篇(1)】

■震災後、変貌する盛り場

 昭和の2、3年から5、6年ごろまでの新聞の社会・文化欄を見ると、ほとんど毎日のように「エロ」「グロ」「ナンセンス」という言葉が氾濫しており、溜息がでるほどだ。 当時の国民は一種の熱病にかかっているか、あるいは集団的な物狂い状態にあったのではないか、と思いたくなる。事実、都会を中心に多くの国民が、昭和後期の「バブル期」のように一種の熱病にかかり、物狂いのなかにあったのである。

 なかでも目に見える形で、華やかに妖しく巷にあらわれたのはカフェーであった。今様のお茶を飲ませる喫茶店ではない。女給によるサービスつきの店で、現在であったら「ガールズバー」や「キャバクラ」、さらにはひところ流行ったキャバレーやアルサロ(アルバイト・サロン)、ピンサロ(ピンクサロン)などに近いものもあった。

 なにしろ大不景気下での生き残りをかけた自由競争である。店同士の競い合いでサービスはエスカレートし、薄暗い店内で相当きわどいことも行われるようになっていく。

女給のサービス=「アサヒグラフ」1929(昭和4)年9月11日号

 いわゆる「カフェー」は欧米で生まれたものだが、飲み物類はボーイが運んでくるのが普通であった。女性が運んできたとしてもエロはぬきであり、現在のカフェーや喫茶店、パーラーと基本的に同じである。

 日本で最初に誕生したカフェーは明治44年、東京市京橋区日吉町にできた「プランタン」であるとされる。東京美術学校出身の洋画家松山省三が開いたもので劇作家の小山内薫が命名した。

 一方、明治39年、銀座に台湾喫茶が誕生しており、これが日本初のカフェーとする説がある。台湾の民政長官であった後藤新平の部下が台湾製のウーロン茶を大量に購入し、これを宣伝するために開いたのである。ここには女給もいたが、エロ・サービスとは無縁のウエイトレスの類であった。

 大正時代になって、銀座に資生堂パーラーや不二家等などのカフェーが出現した。いわゆる「大正モダニズム」「大正デモクラシー」の波にのって現れたモダンでハイカラな店で、文士や画家など文化人やインテリ層がしばしば足をはこんだ。第一次世界大戦で日本はいわば漁夫の利をしめたため、経済も活況を呈し、一部上層階級ばかりでなく、庶民の懐も豊かになった。経済的な繁栄のなか多くの人が贅沢の味を覚えたといってよい。

 そんな背景のもと、資生堂パーラーなどのモダンな趣きの店が誕生したのである。上品な雰囲気が漂ったものの、やや高踏趣味の趣きがあったため、庶民には敷居が高かった。

■大震災でカフェーも変質

 カフェーが大きく変質し大衆化したのは関東大震災以降のことである。

 東京市の震災復興計画は、震災の被害が比較的すくなかった丸の内のオフィス街などに力点をおいた。盛り場については丸の内に近い銀座に焦点があたり、浅草に取って代わる最先端の盛り場となった。震災によって人の流れも変わった。郊外に住む俸給生活者(サラリーマン)が増え、私鉄のターミナルである新宿、渋谷などが賑わうようになったのである。それにともない、大都会の消費の主な担い手が、旧来の商工自営業者を中核とする「旧中間層」に代わって、郊外の住宅地に住む俸給生活者を核とする「新中間層」に代わりつつあった。

 文化の担い手が代われば、文化そのものも変わる。

 震災によって江戸の面影を残す建物の大半が消えたかわりに、西洋の都市をモデルにした建物がたち、地下鉄をはじめ新しいインフラが整備された。

 当時「尖端的」という言葉がはやり、時代の先頭をきる現象について「尖端的女性」とか「尖端的文化」などという使われ方をしたが、昭和2年に開通した地下鉄銀座線はまさに当時の尖端的な交通手段であった。洋風に装って地下鉄に乗り銀座にいきデパートで買い物をする。それがモダンで尖端的、つまり格好のよいこととされた。

■妖しい花・カフェーの急増

 昼の変化に呼応するように夜の風俗も大きくさまがわりした。日本橋から新橋にいたる銀座界隈に、カフェーが急増したのである。

 「その出来方も実にスピーディでよくもこんなに早く同じような形式のカフェやバーが、たった一二ヶ月の間に目まぐるしく出来上がっていくものだと感心させられるくらいである。そして又、よくもあきずに、別に珍奇というほどでもないそれ等カフェやバーに、まるで九十九里を渡り歩く鰯の群のように出かけて行くものだと、両者に通じるところの微妙にして器用な因果作用に、更に感心させられるのである」(『エログロ カフェ・女給の裏おもて』小松直人著、二松堂、昭和6年)

 小松によれば、カフェー最盛期の昭和4、5年頃、東京で働く女給の数は1万5000人にのぼった。8割は18歳から24歳までの女性であった。カフェーで繰り広げられるのは「センチメンタルな陽気さ」であった、と小松は指摘する。

 「うれしい事がある度に、悲しい事がある度に、人々はそれを思い出したり、忘れたりするために、どこかのカフェに入るのである。そして、若く、健康で、明るい女給たちのほがらかなサービスと酒の味に、人生のうさを払うのである」(同上)

 当初、銀座で流行ったカフェーはその類のもので、今風にいえばサラリーマンのストレス解消のための格好の「息抜き場」であったといってよい。もっとも、当時まだ残っていた男尊女卑の空気を反映して、男のみのストレス解消の場であった。

 女性にとってカフェーは「就業の場」がひとつ増えたという域をでなかった。

 当時は「職業婦人」という言葉ことさら口にされるなど、女性が社会にでて働くこと自体珍しく、多くの女性にとって仕事や職場は結婚するまでの「つなぎ」であった。

 一部の「尖端的女性」ももちろん存在したが、圧倒的に多くの女性は結婚適齢期がくると結婚し、家庭にはいり、子を産んで育てることが当然の生き方とされたのである。

 24歳までが結婚適齢期で、その年齢をすぎると「行き遅れ」「オールドミス」といわれたりした。戦後も昭和の50年代までその類のことがいわれたもので、テレビのホームドラマの脚本を書いていた筆者自身、1980年代、ドラマ脚本のなかで「オールドミス」といった言葉を登場人物に何度もいわせた。それが日常の会話として成立していたのである。(つづく)

*引用原典中の旧かな旧字等は現代読みにかえてあります。