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[2]第1章 盛り場・風俗篇(2)

「エロ・サービス」の出現

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

■エロ・グロ・ナンセンスの背景

 エロ・グロ・ナンセンスが流行った昭和初期の時代背景について、若干触れたい。

 震災後の復興で東京には復興需要があり、土木、建築などを中心に一部業者はその恩恵をうけ、潤った。ところが1927(昭和2)年、世界大恐慌が発生し、ようやく復興の筋道の見えはじめた日本経済を直撃した。消費は冷え込み、中小零細の企業を中心に倒産があいつぎ、失業者も急増し、社会不安が募った。

映画『大学は出たけれど』

 大学を出ても就職できず、大学卒の肩書きを隠して職工などの職を得ようとする若者もいたほどである。昭和2年、小津安二郎監督は無声映画『大学は出たけれど』をつくり、大学を出ても働き場のない若者の苦悩を描いた。

 今の「就職超氷河期」よりもっとひどい就職状況であった。じっさい、大学卒業者の二人に一人が就職できなかった。この映画がきっかけで「大学は出たけれど」という言葉が流行した。

 一方、農村の疲弊は一層はなはだしく、特に東北地方では生きるために親が娘を遊郭に売ったりるすケースがあいつぎ、社会問題となった。

 貧困と時代閉塞感が暗雲のように社会をおおうなか、1917(大正6)年のロシア革命に刺戟され、マルキシズムの運動がもりあがり、工場でのストなどがあいついだ。比例して官憲の弾圧も次第に激しくなり、関東大震災直後、社会主義者が官憲の手で殺害されるなど、労使関係も殺伐となった。

 光があれば陰があり、陰があれば光があるものである。農村の疲弊とは逆に、大都会を中心に華やかできらびやかな「盛り場風景」が出現した。大正時代にあじわった好景気のもとでの贅沢の味は多くの国民の潜在意識に残っており、震災復興が緒についてくると、それまで抑えていた消費への意欲が爆発的に増大した。

 アメリカではすでにトーキー映画がうまれており、震災後の日本でも上映されるようになった。アメリカ文化の粋ともいうべき大都会や、そこを走る自動車、そしてジャズのリズム、チャールストンの踊りなどが、映画を通じて目に見え耳に聞こえるかたちで日本に入りこみ、都市部の少年少女、青年たちの心をとらえた。

 大人たちの生活意識にも変化が生じた。変化は目に見える形で、たとえば衣服などに素直に現れるものである。震災後、多くの日本人の男性の衣服が着物から洋服に変わった。機能の面からも洋服は動きやすく、働きやすいのである。機能を最重視する軍隊では明治維新以来、陸海軍とも「様式」をとりいれていた。それが民間にもおよんできたのである。

 女性はまだ和服が過半数であったが、都会の一部ながら「尖端的」女性が断髪し、スカートをはき、颯爽と銀座の街を闊歩した。モガ、モダンガールといわれた女性達である。

 一方、夜の盛り場には、即席のカフェーがそれこそ雨後の竹の子のように誕生した。東京においては、当初女給がはべってビールをついだり会話に応じたり、後年のバーの雰囲気を保っていたが、後述するように大阪から「資本力」にものをいわせた業者が乗り込んできてから「エロ・サービス」が顕著になり、それがまた客の関心をよび、一層の繁栄をもたらした。

 一種の「狂い咲き」「徒花」という見方もあるが、筆者はこれを時代の変わり目に必ずといってよいほど現れる「価値観の転倒」現象ととらえたい。

■存在の危機に、大量に放出されるドーパミン

 人に限らず動物は存在の危機、命の危機に見舞われると、本能的に防御反応の一つとして瞬時に神経伝達物資のドーパミンを大量に発散する。自分という個体は死んで消えていくにしても、個体に備わっている遺伝子を残そうという「意志」が自動的に動き出し、遺伝子という形で次世代を残そうとするのだろう。

 そんな自然のメカニズムが効果的に働かない生き物は、進化の法則に従って自然淘汰されて消えていった。過酷な生存競争で生き残った人類は、他のどんな生物にもまして自己保存欲が旺盛である。

 自己保存欲の柱は自己の遺伝子を残すということ、端的にいえば雄雌(男女)の交合によって命の継承者である子を産み育てることである。生殖行為を裏で支えているのが性欲であることはいうまでもない。

 人類はほかの多くの哺乳類のように決まった発情期がなく、一年中発情期にあるが、普通、日常生活のなかで人は「理性」というブレーキをかけ、発情をおさえている。ところが、時代の閉塞感が強まり一定の限度を超えると、自然に備わった生体反応が理性を乗り越える働きをするようで、それまでの「常識」を逸脱した現象が起こる。

 戦時という異常事態に遭遇すると、この機能が最大限に働くが、平時にあっても時代閉塞が強まると、自然発生的に生まれるようで、それが逆に社会のバランスをとる働きをするのである。

 柱は以下の三つである。

★過剰な性欲の発露(エロ)

★そんな衝動の基盤となる腐食した土壌(グロ)

★従来の価値観を根本的にひっくりかえそうとする衝動(ナンセンス)

 三つあわせて「エロ・グロ・ナンセンス」というと、なにやら三題噺めくが、じっさい社会の混乱期、激変期にはきまってエロ・グロ・ナンセンスの範疇にはいるものが、はびこる。雑草のように逞(たくま)しく旺盛なはびこりぶりを見ていると、人類社会の存続のためにはエロ・グロ・ナンセンスが必須の栄養素であるといいたくなる。

■きっかけは「大阪式カフェー」

 カフェーも初期の銀座のプランタンのように上品で、モダンの気分をあじわう店であったら、文士や画家や一部好事家などが集まるだけで、それほどの広がりを見せなかったであろう。当初は「色気」が、さらに「エロ・サービス」が出現し、店同士の競い合いが激しくなるなか、新聞や雑誌が派手にとりあげたこともあって、カフェーは爆発的に増えた。

 銀座に誕生したカフェーは女給が飲食物を運んできて話し相手になる程度のもので、色気をふるまうものの露骨な「エロ・サービス」にまでは至らなかった。

 銀座のカフェーが大きく変貌したのは、大阪から「大阪式カフェー」ともいうべき店が相次いで進出してきてからである。大阪式カフェーの特色とは――ひとことでいえば「エロ・サービス」である。

大阪式のカフェー=1929(昭和4)年9月11日

 具体的にどのようなものであったか。大阪式を真似た東京の神田須田町駅前のカフェー「ヤマト」について紹介すると――。

 「このレストランでは、×××、etc・etcが自由自在であるという。二階の日本間で、こっそり女たちは、××を×いでいるという。エロ気分を味わいたい人は、何をおいても、このカフェーを尋ねなければならない。(中略)ぴか一に続く女は××子である。産は北陸、××県、年は28、9だが、見たところは24、5にしか見えぬ。時に洋装するかと思えば、時にイキなお召しを着ている。かと思えばケバケバしい大模様のキンシャ(金紗・編集部注)をぞろりと着流している。今日はモガ、明日は江戸趣味というところだ。

 この女にクレオパトラというニックネームがある。がこのネームは案外、×××××にひそんだ凄腕につけられたものかも知れぬ。その他、これにつづく女給は、どれもこれもその道の腕達者ばかりである」(『エログロカフェ・女給の裏表』小松直人著)

 検閲のあった時代なので、きわどい箇所は伏せ字になっているが、それがかえって怪しさ、妖しさをかきたてる。この種のサービスを提供するカフェーが銀座を中心に新宿、渋谷や東京市内のあらゆる盛り場に出現したのである。

■商売重視の大阪式

 「商売重視」で「エロ・サービス」を盛り込み、日本のカフェーを大きく変えた大阪式カフェーだが、大正初年に開店した「カフェ・キサラギ」や、ついで道頓堀に誕生した「カフェ・パウリスタ」や「カフェ・ナンバ」などは、銀座の資生堂パーラーのような落ち着きをもったカフェーであった。

 いくつかの店が商売重視の観点から官能を刺戟するエロ・サービスを売り物にしたところ、連日連夜客が押し寄せた。

 大衆の心をとらえるのは、いつの時代も人間の(というより動物の)二大本能の「食欲」および「性欲」に訴えるものである。ただ、食はともかく性となると社会倫理やモラルと抵触する部分が多く、法的にもさまざまな規制があるので、業者のほうにもおのずとブレーキがかかる。大阪の業者はそのブレーキをぎりぎりまで外したのである。

■「サロン春」

 1929(昭和4)年、銀座裏の交詢社ビルの1階に大阪資本の「サロン春」がオープンした。「サロン春」は開店早々から連日満員の客をあつめた。これを見て半年後、「美人座」が銀座にオープンし、「サロン春」以上に大阪式を露骨に実践し、客足をのばした。さらに「日輪」「赤玉」など大阪勢が続々進出し、またたく間に東京勢を駆逐する勢いになった。

 大阪商人は東京の商人について「武士の商法である」と小馬鹿にし、一方、東京の商人は大阪式を「えげつない」「儲けしか考えない」と軽蔑するなど、カフェーをめぐって東西の商人気質が真っ向からぶつかったのである。

 東京進出の先駆けをなした「サロン春」のケースを見てみよう。

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