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“幻の名画”、ブレッソンの『白夜』ついに再上映!(上)――厳格なスタイル、および運命論的な展開の不思議

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 フランス映画史に屹立するロベール・ブレッソン(1901~1999)は、ともすれば大仰で古めかしく響く「孤高の」という形容が、その厳格に研ぎすまされた彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)のスタイルゆえ、ジャストフィットする例外的な映画作家である。その彼が残した珠玉の長篇13本のなかでも、これまで最も見る機会の少なかった1本、『白夜』(1971)が東京・渋谷のユーロスペースで公開中だ(11月23日まで。以後、全国巡回)

 権利問題が絡んでフランスでさえ上映されることが稀な、ドストエフスキーの同名の短篇小説をベースにし、舞台を撮影当時のパリに移した『白夜』(原題「ある夢想家の四夜」)は、その峻厳かつ官能的な美しさが、熱心な映画ファンの間で長く語り継がれ再上映が切望されてきた、文字どおりの“幻の傑作”であった(日本でも1978年の劇場公開以来、映画祭や特集上映でしか見られなかったし、いまだソフト化もされていない)。

 しかし、そんな長年の映画ファンの願いが叶い、幻が現実になったのだから、今回の再上映は絶対に見逃せない。

<物語:若い画家のジャック(ギヨーム・デ・フォレ)は、ある晩、セーヌ川に入水自殺しようとした美しい女性、マルト(イザベル・ヴェンガルテン)を救う。マルトは再会を誓った恋人と会えずに絶望していたのだ。ジャックとマルトは互いの身の上を語りあい、頻繁に会うようになる。

 ジャックは孤独な青年で、理想の女性との出会いを夢想する日々を送っており、それを詩のようなロマンティックな言葉にして、テープレコーダーに吹き込んでいた。彼はやがてマルトに恋心を抱くようになるが、一風変わった“善の化身”ともいうべき彼は、マルトが再会を約束した恋人と出会えるよう献身する(ここまでが第一夜、第二夜で語られる物語だが、マルトの恋人は、「結婚できる身分になったら一年後に会おう」と言い残して、彼女のもとを去ったのだった)。

 だが、第三夜目になってもマルトの恋人は現れず、彼女もジャックに心惹かれ始めていた。そして運命の第四夜がやってくる……>

 こう要約してみれば『白夜』は、いかにもロマンティックで通俗的な恋愛映画に思われるかもしれない。だがロベール・ブレッソンの作品である以上、この映画にも、一般の恋愛映画のそれとは全くちがう、いわば強度の静謐さが張りつめているが、ただし、『白夜』は彼の作品としては例外的に、軟調のまろやかな光や甘美な音楽が目と耳に快く触れてくるフィルムだ(バトー・ムーシュ/遊覧船が、照明灯の金色がかった白光で闇を照らしつつ、その反映(かげ)を液状化した光のように水面に映しながら夜のセーヌをゆっくりと下ってゆく映像の、なんという美しさ! まったく、そこでの軟らかい光は、白金色の輪郭を崩して黒い水面に溶け出していくかのようだ)。

 さてしかし、本作でもブレッソンは素人の役者/モデル――彼はプロの俳優を嫌ったばかりか、「俳優」という言葉さえ忌避し、役者を「モデル」と呼んだ――を使い、彼・彼女らに喜怒哀楽を表情で表す「顔の大芝居」を禁じ、ともすれば自動人形のような不自然さを帯びる演技、すなわち「演じないことを演じる」無表情の演技、抑揚を欠いた一本調子のセリフ回しを徹底させ、手の動き、足の動きのクローズアップやドアが開閉する映像を、ていねいに細かくカット割りし断片化していく、彼ならではの厳格な映画手法で押し切っている。

 したがってブレッソン映画を、登場人物の心理や感情のレベルで論じるのはほとんど無意味なので、次回では『白夜』を中心に、ややディープにブレッソンの映画作法について述べてみたい。

 とりあえず今回は、ブレッソンの人間観、広い意味での宗教観、世界観――それらは彼の作品中にしばしば<運命論>というかたちで表れる――を簡潔に言いあてている、映画評論家の中条省平氏の卓見を参照しつつ、ブレッソン的人物の<理由なき行為>について、ざっと触れてみよう。

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