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大島渚、またはスキャンダルを起こす才能

古賀太 日本大学芸術学部映画学科教授(映画史、映像/アートマネジメント)

 「映画を撮るたびにスキャンダルを起こすというのは、すごい才能なんだよ」

 これは1999年に全国で開かれた「パゾリーニ映画祭」のチラシやポスターに書かれた大島渚の言葉だ。当時この映画祭を企画していた私が、彼の文章からではなく、前年に都内のホテルで開かれていたあるテレビ番組の打ち上げの席で直接聞いて書いた。本当はその前に「僕やパゾリーニみたいに」という、重要な前置きがあった。

パゾリーニ映画祭のチラシ

 会ったのは、大島監督に「パゾリーニ映画祭」の実行委員長になってもらうためだった。幸い,、快く引き受けてもらい、朝日ホールの記念シンポジウムでは『御法度』(99)のカンヌ出品直前にもかかわらず講演までしてくれた。冒頭のチラシの文章は、ゲラを送ると喜んでもらえた。

 大島渚が、同時代の監督として意識しているのは、フランスのジャン=リュック・ゴダールとギリシャのテオ・アンゲロプロスだと語っていたのはよく知られている。それは映画のスタイルの点からも政治的なテーマの点からも理解しやすい。ところがイタリアのピエロ・パオロ・パゾリーニはちょっと違う。

 それでも彼は講演でもパゾリーニへの共感を口にした。1970年のベネチア国際映画祭に『少年』(69)を持って行った時、『豚小屋』(69)を出したパゾリーニとリド島ですれ違った瞬間を鮮やかに語った。確かに『テオレマ』(68)でブルジョア社会が1人の美青年に壊されてゆく物語を撮ったり、『ソドムの市』(75)でナチス傀儡政権内の性的倒錯を描いたりしたパゾリーニは、一作ごとにスキャンダルを起こしていた。

 大島渚もまた、意識的にスキャンダルを起こし続けた。男性器を切り取る阿部定事件を描いた『愛のコリーダ』(76)や外交官夫人がチンパンジーと仲良くなる『マックス、モン・アムール』(86)、そして新撰組内部に美少年が入り込んで侍たちを誘惑する『御法度』(99、今思うと『テオレマ』に構造が酷似している)などの後期作品は言うまでもない。

 第1回作品の『愛と希望の街』(59)は一見オーソドックスな青春ものに見えるが、企業社会への冷ややかな視線や、無表情な少年の測りがたい心情、そしてラストに鳩を撃つというハッピーエンドを否定したシンボリックな終わり方など、松竹の新人監督としては十分にスキャンダラスで、松竹の城戸四郎社長が「資本主義に対する敵意が出ている。どうにかならんか」と言った作品だ。

 それからスキャンダル性は加速する。

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