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[10]第2章 演劇篇(2)

「インチキレビュー」

香取俊介 脚本家、ノンフィクション作家

第2次カジノ・フォーリー

 三度目の正直という言葉がある。ビジネスでも恋愛でも何か新しい試みや事業でも、最初の新しい試みがそのまま成功に結びつくことは希であり、新しい試みはたいてい失敗するものである。失敗をかさねつつも粘りに粘った結果、幸運も作用して成果がでる。

 国運隆盛で好景気、高度成長の途上にあるときならともかく、関東大震災後の日本は東日本大震災後の日本と同様、不景気風が吹き荒れ、倒産や失業、自殺などがあいついだ。当時の新聞を見ると、倒産、失業、母子心中、窃盗、放火、強盗等々、暗鬱で不安をかきたてるようなニュースのオンパレードである。東北などの農村では天候不順で不作がつづき、借金のカタに田畑をとられたり、娘を身売りする農家が続出した。

 人は先行き不安の空気のなかで、じっと耐えているだけではすまない。時代閉塞感が強まり鬱陶しい空気が充満すればするほど、それをお手軽に吹き飛ばす娯楽、慰めが必要となる。都会の盛り場を中心にカフェーが異常な繁殖ぶりをしめしたことは第1章で紹介したが、その恩恵に浴する人はごく一部の男子である。庶民のなかに、さらに新しく新鮮な娯楽を求める欲求がたかまりつつあった。

 第1次カジノ・フォーリーは2カ月で閉鎖されたが、この種の新しいものを求める人たちは確実に存在しており、欲求不満が一種の飽和点に達していたといってよい。

 幸い、水族館の管理者である桜井源一郎の義弟で音楽家の内海行貴(ゆきたか)が、兄の正性(まさなり)にかわって経営にたずさわることで、第2次カジノ・フォーリーを発足させることができた。

 第2次では座長の石田守衛らが抜け、代わって第1次のカジノで人気を博したエノケンが座長格となった。演し物はバラエティや踊りをまじえた5本だてで、1日3回公演という強行スケジュールであったが、全員が若々しく、とにかくエネルギーがあった。

 浅草オペラの先輩たちが抜けたことで、エノケンとしての独自色をだすことも容易になった。

 他方、内海行貴は海外の音楽情報に詳しい兄を通じて欧米から「サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート」や「マイ・ブルー・ヘブン」などのジャズの最新情報を手に入れ、日本語の歌詞をつけてエノケンに歌わせた。これに文芸部長の島村龍三をくわえた3本柱で、泥臭いながら当時としてはきわめて斬新で独創的な「日本式(インチキ)レビュー」を創り上げたのである。

オリジナルは「物まね」から

 よく「これは純粋なオリジナル作品である」という言い方をするクリエーターがいる。しかし、「オリジナル」と称するもののほとんどは、先人達や海外の作品等をヒントにしたり、真似したり、あるいは直接間接に影響を受けていたりしている。「創作」とは、当人の脳髄に記録された過去の様々な記憶から必要なデータを取り出し、その人なりの美意識、価値観にそって独自に組み合わせ、組み立てていくものである。

 「記憶」はじっさいに体験したことにとどまらず、本や新聞雑誌を読み映画や演劇を見、町で偶然耳にしたことなどの膨大な「体験」の蓄積である。多くは忘れ去られるが、潜在意識に定着しているものもある。ものを創りだすとき、当人が意識するしないにかかわらず、案外大きな役割を果たすのは「意識下にたくわえられた潜在意識」と「記憶」である。

 ヨーロッパのレビューや音楽に詳しい内海兄弟は、自分の目で見、耳で聞き肌で感じたことにより、これは日本でもはやると確信した。一方、エノケンは独特の勘でハリウッドのキーストン社などのスピードとリズムのある喜劇映画の動きやギャグを吸収し、これを真似たりヒントにした。そして、お金をかけられないというマイナスの条件を逆手にとって、当時としては奇想天外な舞台を作り上げた。物まねやヒントを得るところから「新しいもの」が生み出される。それをエノケンは身をもって実践し、成功させたのである。

 そのへんの事情をエノケンはこう記す。

 「僕は、思い切りスピーディで、気の利いたギャグを次々と考案しては、舞台にぶっつけていった。舞台はあまり広くなかったので、道具立てはほとんどバックの画であった。その描かれたベンチに腰をかけ、弁当を食べはじめ、胸につかえた仕種で、やはり描かれた噴水の水を飲んでホッと一息ついたりして、爆笑を涌き起こした。バックの画の帽子掛けに帽子をかけると、ストンと帽子が落ちる。それを真面目な顔でなんべんでも繰り返すなど、カジノで創り出されたギャグは数えると大変なものになった」(『喜劇こそわが命』)

再スタート

 第2次カジノ・フォーリーがオープンしたのは1929(昭和4)年10月。エノケンを中心に新奇さ珍奇さをめざしてスタートした。当時のカジノ・フォーリーの舞台について、後年、『エノケンと呼ばれた男』を執筆する井崎博之は、第2回公演を観に行った印象をこう記す。

旗揚げ当初のカジノ・フォーリーの舞台(昭和4年)旗揚げ当初のカジノ・フォーリーの舞台(昭和4年)
 「七十人も観客はいただろうか、十一月の夜の冷たさは客の薄い客席に沁み込んでいた。開幕のベルが鳴る。楽士が五、六人、しまっている幕の横から小さい梯子段をおりてオーケストラボックスへ入る。暗くなってフットライトが点ぜられる、うす汚い幕の下の方がパッと赤くなる。ジャズがはじまる、そして開幕。

 舞台には西洋の爺さん婆さんがいる。お粗末な背景や家具ではあるが、それは金持の居間を現している。お爺さんは健ちゃんである、お婆さんは何となく焦った様子で召使を呼ぶと、現れた召使の女は十人、皆可愛い少女ばかりだが、一人もストッキングを

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