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[3]第1章「忘れられた歌姫――青山ミチの存在と闘い(3)」

ポリドール時代の試行錯誤

菊地史彦

 率直に言って、ポリドール時代のミチの持ち歌には一貫性がない。これは彼女のせいではなく、レコード会社がミチの路線については揺れていたからだ。弘田三枝子に追随する洋楽カヴァーも捨てきれず、「ひとりぼっちで想うこと」以来の洋楽風歌謡曲も捨てきれず、あれやこれやを打ち出したものの、決め手を欠く印象があった。ミチ独自の歌を見つけるための試行錯誤だったのだろうが、「次の何か」が見えていない。

 もっとも、この時期の流行歌の世界そのものが、ある種の混乱期だったともいえる。

 50年代末の「日劇ウェスタンカーニバル」のロカビリーブームから始まる、若者向け洋楽ブームは、広い影響力を及ぼした。キャンプやジャズ喫茶で歌っていた若い歌手たちが、続々と歌謡曲の世界に入り込み、従来の歌謡曲とは異なる都会的な歌を大量にもたらした。ザ・ピーナッツ、中尾ミエ、伊東ゆかり、藤木たかしなどを擁する渡辺プロダクションが勢いを増し、急速に増加するテレビの歌番組が、彼らの歌と顔を視聴者に送り出した。

 ミコもミチも、そうした若者歌手のニューフェイスだった。

 しかし、世の中が洋楽一色に染まっていたわけではない。音楽評論家の北中正和が指摘しているように、一方では、戦前の曲のリバイバルが起こり、浪曲調やお座敷調の歌が数多くヒットした。浪曲調の歌手には、三波春夫、村田秀雄、畠山みどりなどの個性的な歌手が多い。

 中でも畠山は、デビュー曲「恋は神代の昔から」で、強烈な唸り節と袴をはいた巫女姿で人々の度肝を抜いた。また、五月みどりやこまどり姉妹、もとはジャズ歌手の松尾和子まで、この頃さかんにお座敷ソングを歌っている。

 さらに、60年代初頭には、フォークソング・ブームもあった。その中心はアマチュアやセミプロの大学生で、主にアメリカのフォークソング・バンドの曲を演奏し、合同でフェスティバルを開いた。いわゆる「カレッジ・フォーク」である。

 フォークソングの魅力は、ヒットチャート系の洋楽にはない飾り気のなさだった。シンプルな楽器編成、英米古謡の素朴さ、ふだん着のような衣装が好感をもって迎えられた。「知的」で「進歩的」なメッセージ性も、スパイスのような効果を生み出していた。森山良子やマイク真木は、こうした手づくり感のある「カレッジ・フォーク」から生まれた歌手である。

 こうした「混沌」の中で、ポリドールがミチのために打ち出した、やや破格・破調の楽曲群がある。「ミッチー音頭」をはじめ、「ミッチー・マーチ」、「ABCからZまで」、「いろはにほへと」(すべて1963)など、岩瀬ひろし(詞)、伊部晴美(曲)のコンビが手がけた一連の作品である(いずれもシングル盤のA面)。

 ロックン・ロールをベースにツイストやブルースなどの味付けを施しているが、受ける印象は、ハナ肇とクレイジーキャッツなどの冗談歌謡曲にも近い。「ミッチー音頭」は、レイ・チャールスの「What’d I say」を翻案したかのごとき曲である。

 伊部はギター奏者であり、どちらかというと編曲の仕事が多い。洋楽カヴァーを離れて、変化球を試してみるために、伊部のような引き出しの多い巧者が起用されたのだろうか。

 これらの曲に特異な様相をつくり出しているのは、岩瀬の詞である。当時の洋楽系の曲づくりで、これらの詞に似ているものは見当たらない。

 たとえば、「ミッチー音頭」で繰り返される歌詞は、「唄って踊ってスタミナつけて イェイ イェイ イェイ イェイ イェイ」というものである。また、E.プレスリーの「G.I.ブルース」ばりの「ミッチー・マーチ」では「ガッチリガメって恋してキスして

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