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[7]第2章「転がる卵のように――集団就職と戦後都市(3)」

森進一と永山則夫、流転のドラマ

菊地史彦

 離職・転職は、こらえ性のない若年労働者たちの浮ついた行動ではなかった。それは割の合わない労働に展望を失った者たちの、ぎりぎりの〈反抗〉だったのである。

 1963年に宮城県・上沼(うわぬま)中学校を卒業し、東京へ出た中卒者たちの「その後の10年間」を辿った記事がある。週刊誌には珍しい10ページに及ぶ特別記事である(『週刊新潮』1973年6月21日号)。

 約40名の少年少女たちは、仙北鉄道の上沼駅から父母や教師に見送られて出発した。途中の駅で他校の卒業生を載せ、瀬峰駅で東北本線の「集団就職列車」に乗り替えた。一夜明けて、上野駅に降り立った集団は500名に膨れ上がっていた。

 上沼中学校のこの年の卒業生は175名。県外に就職した58名のうち、35名が首都圏に就職した。記事を書いた岩沼隼は、この35名のその後を追跡した。

 10年間で勤め先をまったく変えなかったのは、ソニーと打越メリヤス(後のスターニット)に入った女子2名だけだった。後は皆、転職を経験している。

 そのうちの一人、佐藤正義が最初に就職した墨田区のオモチャ会社は、ひと月もしないうちに潰れた。次に職安から紹介されたのは、同区内の三江製作所。ステンレス製中ビンのジャーを開発して鼻息も荒かったが、不良品と判定されて社長が自殺し、いっきょに傾いた。次の月賦店、喜久屋はつぶれもせず、ガールフレンドもできたが、18歳になると、父の遺言で自衛隊に入隊した。御殿場で2年を過ごし、除隊して故郷の近くで建具の見習い職人になるものの、親方と喧嘩し、バイクで飛び出す。埼玉県でバイクを売り払い、電話工事の請負で1年半しのぐが、危険な工事だったので、長距離トラックの運転手に転じ、川崎・広島を往復する。トラックの中で寝泊まりする生活をしばらく続けて、取材の時点では電鉄系タクシー会社にたどり着いている。

 後藤とくえは、入社した会社の規模が大幅に縮小され、配置換えで遠い工場で働くことになった。嫌気がさして、和文タイプを習いながら念願の銀座でウェートレスになった。その後は川崎・元住吉のボウリング場で働き、一念発起、プロボウラーを目指すものの、叶わぬ夢と諦めて石油会社に転じる。むしょうに結婚したくなり、職場で相手を見つけた。取材当時は、大きなお腹を抱えていた。

 手にマメをつくって働いたアサヒゴムの工場から横須賀市のデパートガール、そして同じ安浦町のバーへ流れた熊谷万代。東京・芝の町工場、渋谷の米屋、のんべえ横丁の焼鳥屋と働く場所を変えながら、定時制高校へ通い続けた只野頼治。社員寮の炊事婦から東芝へ移り、遊戯施設のアルバイトで仕送りを続け、夫の故郷で商売を始めようとする佐藤徳子。

 日本コロムビアから赤坂、丸の内、大手町と高給レストランを渡り歩き、結婚したものの相手の事業が破綻して、上野のキャバレーへ出た仮名の女性……。

 記事の末尾に掲げられた35人の10年間の一覧表は、めまぐるしい転職の軌跡である。

 もっと果敢に転職を繰り返す若者もいた。

 彼らと同じ年に、鹿児島県から集団就職した9544人の中の1人、森内一寛である。

 彼は、大阪市・十三駅前の寿司屋「一花」へ就職した。住み込み食事付きで給与は1万2000円。一人前の寿司職人になりたいと思っていたが、1カ月で店を去った。

 鹿児島へ帰って、大衆食堂の皿洗い、キャバレーのバンドボーイなどをやってみるが、続かない。また大阪へ戻って、鉄工所、大衆食堂。次は東京へ出て、中華そば屋、和風食堂、塗装看板屋、お茶漬け屋。また、大阪へ戻ってフランス料理屋、運送屋、バー。再び東京へ出て、家具屋、外人バー、大衆食堂……。ここまでで転職は17回を数えていた。長くても3カ月、最短はたった1日。転がる石のように転々と職を変えた。

 後年、彼はその頃の様子を次のように語った。

 日曜日にね、集団就職の仲間に会うんです。励ましたり慰めたり? とんでもない、情報交換ですよ。
 “どうだ、給料はいいか?“
 “仕事、きつくないか?“
 で、よし、となったら、タクシーにフトンのっけて、サッとずらかって、ちがう店へいっちまうんです。みんな、そうなんですよ。(『女性自身』1968年6月17日)

 彼の最後の転職先は、チャーリー石黒と東京パンチョスというバンドである。石黒は、フジテレビの「リズム歌合戦」で優勝した森内を、内弟子兼バンドボーイとして自宅のガレージに住まわせた。固定給なし、空腹に苛まれながら、歌を学び直した。

 演歌で行くという石黒の強い主張に、所属先の渡辺プロも折れた。デビュー曲は、「女のためいき」(吉川静夫作詞、猪俣公章作曲)。1966年6月。森進一の誕生である。十三の寿司屋を辞めてから、3年が経っていた。

 その頃、永山則夫は、まだ流転の旅の途次にあった。

 永山は、1965年3月末、集団就職列車に乗って、青森から東京へ出た。最初の勤め先は、渋谷駅前の西村フルーツパーラーである。店には、母親が1カ月の行商で得る収入と同じ数千円もするメロンがあり、それを買っていく客がいる。永山の月給は、1万2000円で、これも望外の金額だった。

 北海道で育った永山は、訛りが少なかったので、他の地方出身者ほど言葉のコンプレックスに悩まないですんだ。夢中で仕事を覚え、3カ月後には東急プラザの支店担当に抜擢された。開店準備に奔走し、店では「銀座に行っても通用する」と言われて得意になったが、東京の暑い夏をなんとか乗り切った頃には疲れがたまっていた。

 「事件」はそんなときに起きた。

 秋に採用活動で永山の母校を訪問した上司は、学校関係者から、彼が中学3年の時に起こした窃盗事件について聞かされた。それが店の中で知れ、永山を精神的に追いつめた。仕事のミスも続いていた。過去の犯罪がばれてしまえば、クビになるのはまちがいないと思い込んだ永山は、誰にも相談せず、荷物も置いたまま、飛び出した。

 そんな永山を、東京の荻窪で苦学していた三男の兄は、追い返してしまった。

 行き先を失って、神戸で最初の密航を企てるが、横浜へ送還された。栃木県小山市の長男の家へ送り届けられ、近くの板金工場に勤めるも、窃盗の真似をして逮捕。年が明けると長男の家を飛び出した。以後、永山の逃亡のような転職が始まる。

 ジャーナリストの堀川惠子によれば、「最初は必死に働くものの、辞めるきっかけはいつも同じ。人間関係をつくれず孤立して、何をされても被害的に受け止めてしまい、果ては身ひとつで逃げ出すというパターンを繰り返す」(『永山則夫』、2013)。

1969年 逮捕され、東京・代々木署を出る永山則夫1969年、逮捕され、東京・代々木署を出る永山則夫(中央)
 1966年9月、永山はアメリカ海軍横須賀基地に潜り込み、また逮捕された。保土ヶ谷の少年鑑別所では、同室の少年たちからリンチを受けてぼろぼろになった。

 それでも、横浜家庭裁判所へ身柄の引き取りにきた母親と次男に優しくされたことをきっかけに、再起を決意する。新宿・淀橋の牛乳店に住み込み、明治大学付属中野高校の定時制に入学。勉強にもクラブ活動にも打ち込み、ドストエフスキーを読み始めた。

 しかし、疲労がたまるころ、いつもの行動パターンが現われる。様子を見にきた保護観察官とやりとりするうちに、前科が露見するという被害妄想に苛まれ、店を飛び出す。

 その後は、横浜で沖仲仕などの仕事に就くが、定時制高校へ通う夢を捨てきれない。また牛乳店へ住み込むものの入学の前に失踪、3回目にようやく入学にこぎつけた。この時は、まじめに勉強に取り組み、それが認められ、学級委員長にも選ばれた。

 しかし、この推挙は、彼の猜疑心に火をつけることになった。

 永山はこう語っている。

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