メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

増村保造の大回顧特集が東京・京橋で開催!(3)――“色情観音”を描いた耽美的な名作、『卍』をめぐって

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 増村保造は1964年、谷崎潤一郎の小説『卍』(1928)の映画化に挑戦し、みごとに成功した(色鮮やかなカラー作品)。谷崎の『卍』は、周知のごとく、女性同士の同性愛(レズビアン)を中心に男女の四角関係を隠微(いんび)に描いた傑作だが、増村は物語を原作にほぼ忠実に構成し、自らの映画のミューズ・若尾文子に、一種のニンフォマニア/色情狂であるヒロインを演じさせた(登場人物のセリフは、原作と同じく、すべて関西弁)。

――原作どおり、園子/岸田今日子による氏名不詳の老作家、「先生」に対する告白/回想形式で物語は進む。園子はある日、通い始めた美術学校(原作では技芸学校)で、光子/若尾文子という美しい女性と知り合う。

 やがて学校では、園子と光子が同性愛のカップルではないか、という噂が広まる。当初は事実無根の噂にすぎなかったが、会うたびに二人の親密さは増していき、ついに二人は性的な関係に……。 

 そんな中、光子の妊娠が判明(じつは光子の狂言)。さらに光子の婚約者・綿貫/川津祐介が園子の前に現れ、ドラマは奇妙な方向に転がり出す。

 一方、奔放な光子は、園子の夫・孝太郎/船越英二とも関係を結んでしまい、4人の関係は、文字どおり卍巴(まんじともえ)に入り乱れる……。

卍」『卍』より。若尾文子(右)と岸田今日子
 このように増村の映画『卍』で描かれるのは、谷崎の原作同様、勧善懲悪とは無縁の世界で、他の増村作品と同じく、主要人物――園子の夫/船越英二を除く――は、我の強さや欲望の強さにおいて<過剰>である。

 その点で、増村と谷崎の作品世界は、多かれ少なかれ道学者的な説教臭さが見え隠れする夏目漱石の世界とは、大きく異なる(漱石の『こころ』とは違い、中学校の現代文の教科書に、『卍』の抜粋が載ることはありえないだろう。私自身、中学のときに『卍』や『痴人の愛』を読んでいて、国語の教師に叱られたことがある。もっとも、漱石の世界がすべて勧善懲悪というのでは決してないが、少なくとも漱石の作品は、谷崎的な――欲望にとりつかれた多情多感な人間の登場する――耽美主義・唯美主義<後述>の色彩は、希薄だ。漱石の自然描写、情景描写などは、非常に美しいが。つまり極言すれば、漱石の筆が人間の“こころ”に焦点をあてたのに対し、谷崎の筆はあくまで人間の“からだ”を焦点化したのだ)。

 ともかく、映画『卍』の物語を始動させるのは、光子/若尾の類いまれな美貌と、その肉体の稀有な美しさ(いわば過剰な美)であり、それに魅せられて、のぼせあがり、積極的に光子に言い寄る園子/岸田の<過剰な>情熱である。

 そして、過剰な美の持ち主、光子/若尾は、その手練手管を弄する狡猾さ、虚言癖においても<過剰>である。光子の婚約者・綿貫/川津も卑劣さ、性向の異常さにおいて<過剰>である(美男の綿貫は性愛の技巧には長(た)けているが、じつはインポテンツ/不能者)。

 谷崎の原作が湛(たた)えている耽美主義、唯美主義――美に最上の価値を認め、それを唯一の目的とする、芸術上の立場――は、園子が抱く、光子の美しさへの崇敬とさえ言える恋着に端的に表れているが、増村の映画でもそれはむろん踏襲されている。

 だが、増村の映画が凄いのは、

・・・ログインして読む
(残り:約3241文字/本文:約4618文字)