メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

フリッツ・ラングの傑作、『怪人マブゼ博士』(1932)が東京・渋谷で公開!(下)――黒沢清『CURE/キュア』を連想させる「霊」の声の場面、世界浄化の炎など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 今回は、前回(「催眠術を操る犯罪狂をめぐる精神病理学的スリラー」)触れえなかった、『怪人マブゼ博士』の特筆すべき場面やショットについて、やや詳しく見ていこう。

 中盤の、マブゼの霊がバウム院長に乗り移る場面の特撮(二重映し)にも、奇妙なインパクトがある。――白い幽体として自らの肉体(死体)から離脱したマブゼの霊が、ひとしきり空中を浮遊してからバウムの肉体と精神にとりつく、いわば不可視のもの(霊)が可視化される幻想的なその場面は、ドイツ表現派怪奇映画的ビジュアルのエッセンスが、見事なまでに凝縮されている(こうした場面には、心霊写真の場合と同様、超自然的な現象が、映像テクノロジーによってこそ可視化されるという、科学(合理)が非科学(非合理)的なものの実在を――フィクションとしてであれ――担保してしまう、という逆説が見てとれよう)。

 しかし何より傑出しているのは、フリッツ・ラングが「見えざる黒幕」マブゼを、「幽霊」や「変装」といった視覚的イメージではなく、<声>という、文字どおり<見えないもの>として表した場面だ(物語のこの時点では、マブゼはすでにバウムに乗り移っているのだから、マブゼ/バウムと表記すべきだが、以下では便宜的にマブゼと記す)。――それは犯罪組織のアジトの、暗色のカーテンに仕切られた陰気な部屋にマブゼの声が響き渡る場面だが、組織のメンバーの誰ひとりとして、その部屋に入ることは許されていない。

 また彼らは、マブゼが指示する偽札偽造やテロの真の意味をまったく理解しないまま、命令どおりに――まさしく組織の歯車の一つとなって――、行動するだけだ。つまり、カーテンの向こう側に身を隠したマブゼの<声>に操られるだけの存在にすぎない。

 そして、ラングはこの場面で、椅子に座った人影(?)が半透明のカーテンごしに透けて見える短いショットを挿入することで、「見せること」と「隠すこと」を絶妙なさじ加減でミックスする。ちなみに<カーテン>とは、<扉>や<トンネル>とともに、ラングが偏愛する舞台装置だ。

 しかも、ラングの演出はさらに手が込んでいて、カーテンごしに見えた影がマブゼや彼の亡霊ではなく、じつは黒っぽい木製の人形であることを、やがてカメラが暴いてしまう。そしてさらに、くだんの「禁断の部屋」には、人形(偽の肉体)とともに黒ぬりの蓄音器が置かれていた、という事実を知らされて、われわれは驚きの2連打を食らってしまう。部下に指示をあたえていたマブゼの声は、すべてその蓄音器から流れていたというわけだ――。

 要するにそこでは、<声>を獲得したトーキー映画の技術がいかんなく発揮されることで、<声>そのものが、その主である人物の肉体から(幽体?)離脱し、偽の肉体/人形のかたわらの蓄音器から、幻聴のように響いてくるのである(この場面の音声トリックは、トーキー映画におけるアフレコやアテレコの種明かし、ないしは戯画のようにも思われる)。

 だがそれにしても、「見えざる黒幕」、つまり<ここではないどこか>に身を潜めて部下を遠隔操作する正体不明のマブゼにとって、カーテンの背後に隠された人形と蓄音器ほどお誂(あつら)えむきの仕掛けは、またとあるまい。

 この場面でいまひとつ見逃せないのは、くだんの蓄音器が、ナチスが大衆操作/プロパガンダの手段としてフル活用したラジオというメディアを連想させる点だ。

 すなわち、あたかも天空から響いてくる<啓示>のようにヒトラー総統/フューラーの声が、ラジオをとおして国民一人ひとりの耳に侵入してくる――そうしたメディア環境こそ、ナチスの催眠術的=マブゼ的な大衆操作にとってきわめて好都合なものだったはずだ。

 ところで前述のように、この映画は、ヒトラーが国家権力を掌握した1933年に、ナチスによって公開が禁止される。この件については二つの説がある。

・・・ログインして読む
(残り:約2625文字/本文:約4230文字)