メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

[書評]『犬たちの明治維新』

仁科邦男 著

奥 武則 法政大学教授

激動を経験したのは人間だけではなかった  

 幕末から明治維新期、日本人は「一身にて二生を経るが如き」(福沢諭吉)激動を経験した。では、その時代、この列島に住む犬たちは、どうだったのか。

 この疑問に応えて、本書は丹念に史料を探索し、細部にこだわり、この時期の犬たちの経験に光を当てている。読者は、「へぇー、そんなことがあったの?」といった素朴な驚きを何度も重ねつつ、犬たちの経た歴史を通じて「近代」という時代が持った意味を考えることになる。

『犬たちの明治維新――ポチの誕生』(仁科邦男 著)『犬たちの明治維新――ポチの誕生』(仁科邦男 著、草思社) 定価:本体1600円+税

 1853年、ペリーが黒船を率いて、来航した。翌年、日米和親条約を結んで日本は開国する。

 条約締結を終えたペリー艦隊は、将軍から米国大統領への贈り物4匹を含めて、少なくとも8匹の「ジャパニーズ・ドッグ」(狆・チン)を伴って帰国の途についたという。そのうち1匹は「イド(エド=江戸)」の名前で長くペリー家に飼われていた。人にとっての開国は犬たちにとっても開国だったのである。

 江戸時代の日本では犬を個人で飼うことは一般的ではなかった。里犬(町犬、村犬)として、一定の地域に住みついている犬が大半だった。

 開国に伴って開港地に外国人居留地ができた。欧米人とともに彼らが飼っていた犬もやってきた。洋犬である。

 日本人も洋犬を飼うことがステータスになった。カメと呼ばれた洋犬の登場によって里犬は「ただの犬」(地犬)としてさげすまされるようになる(洋犬がなぜ「カメ」と呼ばれたかについてはくわしい考証があるが、読書の楽しみを奪いかねない「ネタバレ」になるので割愛しよう)。

 里犬に衝撃的な変化をもたらしたのは、1873年以降、各地で制定された「畜犬規則」だった。畜犬(飼犬)は首輪をつけ、飼主の住所氏名を明記した木札を付けなければならなくなった。

 犬は「飼犬」と「無主の犬」に分けられ、「無主の犬」を見つけた邏卒(らそつ=巡査)らは、その場で打ち殺してもかまわないとされた。ときに人間たちの暴力に直面することはあったとしても気ままに(?)生きてきた里犬に、管理という枠がはめられたのである。

 「犬の史料はいろいろなところに散らばっている。ただ体系的に記された物がないだけだ。そこで、散らばった史料をこつこつと拾い集める作業を長い間続けてきた」と、著者はさりげなく書いている。しかし、この作業は、ごく一部を除けば、検索語をパソコンに打ち込めばデータが得られるといった類のものではない。著者の「こつこつ」は敬服に値する。

 そうした「こつこつ」を通じて書かれた本書には、いくつも新発見や新見解が示されている。副題になった「ポチの誕生」もその一つである。幼年唱歌の「花咲爺」に「うらのはたけで、ぽちがなく」と歌われたように、犬の名前はあるときから「ポチ」が定番になった。

 なぜ「ポチ」だったのか。著者は先行諸説をくわしく検討したうえで、新しい説を提唱している。その中身も「カメ」同様の「ネタバレ」になってしまうから、ここでは記さない。しかし、この新説は説得的であり、文明開化期における日欧の「言語接触」の一事例としても興味深い。

 明治期の犬の話と聞けば、西郷隆盛を思い浮かべる人がいるだろう。東京・上野公園の西郷隆盛の銅像は犬を連れている。著者は「西郷どんの犬」(第4章)で、これまた史料を博捜して、西郷隆盛と犬の深いかかわりを解明している。

 西郷の犬好きはよく知られている。西南戦争の出陣に際しても数匹の犬を伴った。政府軍との戦闘の指揮は桐野利秋に任せ、行軍中も犬を使って兎刈をした。西郷をめぐる逸話の多くに言及しながら、著者は「西郷のわかりにくさ」を指摘する。この「犬連れ出兵」と行軍中の兎刈もその一つである。

 その上で著者は一つの解釈を示す。西郷はあくまでも自身の暗殺計画に対する「政府への尋問」のために、陸軍大将として鹿児島を出立した。政府と「戦争」するつもりはなかった。だから、犬を連れて平常と同じように兎狩を続けていたというのだ。

 終章で著者は動物文学者、椋鳩十の名作「マヤの一生」にふれて、明治維新からずっと後の時代、太平洋戦争期に犬たちが直面した悲劇にふれている。明治のはじめに「畜犬規則」で囲い込まれた里犬たちのはるか子孫は、軍事用の毛皮を確保する目的のために供出された。著者はそんなリクツは語っていないが、評者はここに、総力戦に根こそぎ動員された人間たちの姿を重ねたくなった。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちら

三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。