仁科邦男 著
2014年08月07日
幕末から明治維新期、日本人は「一身にて二生を経るが如き」(福沢諭吉)激動を経験した。では、その時代、この列島に住む犬たちは、どうだったのか。
この疑問に応えて、本書は丹念に史料を探索し、細部にこだわり、この時期の犬たちの経験に光を当てている。読者は、「へぇー、そんなことがあったの?」といった素朴な驚きを何度も重ねつつ、犬たちの経た歴史を通じて「近代」という時代が持った意味を考えることになる。
1853年、ペリーが黒船を率いて、来航した。翌年、日米和親条約を結んで日本は開国する。
条約締結を終えたペリー艦隊は、将軍から米国大統領への贈り物4匹を含めて、少なくとも8匹の「ジャパニーズ・ドッグ」(狆・チン)を伴って帰国の途についたという。そのうち1匹は「イド(エド=江戸)」の名前で長くペリー家に飼われていた。人にとっての開国は犬たちにとっても開国だったのである。
江戸時代の日本では犬を個人で飼うことは一般的ではなかった。里犬(町犬、村犬)として、一定の地域に住みついている犬が大半だった。
開国に伴って開港地に外国人居留地ができた。欧米人とともに彼らが飼っていた犬もやってきた。洋犬である。
日本人も洋犬を飼うことがステータスになった。カメと呼ばれた洋犬の登場によって里犬は「ただの犬」(地犬)としてさげすまされるようになる(洋犬がなぜ「カメ」と呼ばれたかについてはくわしい考証があるが、読書の楽しみを奪いかねない「ネタバレ」になるので割愛しよう)。
里犬に衝撃的な変化をもたらしたのは、1873年以降、各地で制定された「畜犬規則」だった。畜犬(飼犬)は首輪をつけ、飼主の住所氏名を明記した木札を付けなければならなくなった。
犬は「飼犬」と「無主の犬」に分けられ、「無主の犬」を見つけた邏卒(らそつ=巡査)らは、その場で打ち殺してもかまわないとされた。ときに人間たちの暴力に直面することはあったとしても気ままに(?)生きてきた里犬に、管理という枠がはめられたのである。
「犬の史料はいろいろなところに散らばっている。ただ体系的に記された物がないだけだ。そこで、散らばった史料をこつこつと拾い集める作業を長い間続けてきた」と、著者はさりげなく書いている。しかし、この作業は、ごく一部を除けば、検索語をパソコンに打ち込めばデータが得られるといった類のものではない。著者の「こつこつ」は敬服に値する。
そうした「こつこつ」を通じて書かれた本書には、いくつも新発見や新見解が示されている。副題になった「ポチの誕生」もその一つである。幼年唱歌の「花咲爺」に「うらのはたけで、ぽちがなく」と歌われたように、犬の名前はあるときから「ポチ」が定番になった。
なぜ「ポチ」だったのか。著者は先行諸説をくわしく検討したうえで、新しい説を提唱している。その中身も「カメ」同様の「ネタバレ」になってしまうから、ここでは記さない。しかし、この新説は説得的であり、文明開化期における日欧の「言語接触」の一事例としても興味深い。
明治期の犬の話と聞けば、西郷隆盛を思い浮かべる人がいるだろう。東京・上野公園の西郷隆盛の銅像は犬を連れている。著者は「西郷どんの犬」(第4章)で、これまた史料を博捜して、西郷隆盛と犬の深いかかわりを解明している。
西郷の犬好きはよく知られている。西南戦争の出陣に際しても数匹の犬を伴った。政府軍との戦闘の指揮は桐野利秋に任せ、行軍中も犬を使って兎刈をした。西郷をめぐる逸話の多くに言及しながら、著者は「西郷のわかりにくさ」を指摘する。この「犬連れ出兵」と行軍中の兎刈もその一つである。
その上で著者は一つの解釈を示す。西郷はあくまでも自身の暗殺計画に対する「政府への尋問」のために、陸軍大将として鹿児島を出立した。政府と「戦争」するつもりはなかった。だから、犬を連れて平常と同じように兎狩を続けていたというのだ。
終章で著者は動物文学者、椋鳩十の名作「マヤの一生」にふれて、明治維新からずっと後の時代、太平洋戦争期に犬たちが直面した悲劇にふれている。明治のはじめに「畜犬規則」で囲い込まれた里犬たちのはるか子孫は、軍事用の毛皮を確保する目的のために供出された。著者はそんなリクツは語っていないが、評者はここに、総力戦に根こそぎ動員された人間たちの姿を重ねたくなった。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください