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「紙」から書物を考える(上)――紙を思い、紙をつなぐ

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

 2011年3月11日、東北地方に未曾有の被害を与えた東日本大震災は、世界屈指の規模を誇る日本製紙石巻工場にも壊滅的な状況をもたらした。

 日本製紙がこの国の出版用紙の約4割を担っていること、その主力工場が石巻にあることをその時初めて知ったノンフィクションライター佐々涼子は、「自分たちの迂闊さにあきれた」と言う。

 不明を愧じるその思いを、ぼくも共有する。『紙の本は、滅びない』などと叫びながら、その紙がどこから来ているかも知らず、そのことを問おうともしなかったのだから。

 震災から2年後、彼女は石巻に入り、日本の出版を支える製紙工場が辿った運命を取材、『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている――再生・日本製紙石巻工場』(早川書房)を書き上げる。

保管してあったロール紙も津波で泥まみれになった=2011年3月、日本製紙石巻工場提供震災で、保管してあったロール紙も津波で泥まみれになった=2011年3月 提供・日本製紙石巻工場
 災害からの復興は、時が経てば自然になされるものでは無い。復興に携わる人たちの強い意志と不屈の闘志が不可欠だ。

 「これから日本製紙が全力をあげて石巻工場を立て直す!」

 被災地に入った日本製紙社長の芳賀義雄は、早々と英断した。芳賀は、トップがどれだけ勝利を強く信じることができるかで勝負は決まる、ということを知っていた。

 工場長の倉田博美は、「期限は半年」と宣言する。

 倉田は、早期の目標を立てなければ再生は進まない、と直感していた。振り返れば、震災のとき、津波に飲み込まれた石巻工場にいた全員が奇跡的に生き延びたのも、総務課長村上義勝の冷静かつ決然としたリーダーシップによるものであった。

 芳賀と倉田の判断は、正しかった。

 7月12日、塩水と汚泥に埋もれていた電気設備に、電気が通る。

 8月10日、濃黒液と呼ばれるドロドロの燃料を作業員が懸命に掻き出したボイラーに、火が入る。

 並行して、大量の瓦礫の処理、敷地外にも流出した巻取りの回収作業が、連日連夜続けられた。

 社長と工場長の英断と号令は、復興の可能性と共に、社員全員に生きる活力の源を与えたのだ。「半年復興」という目標は、明るい話題のない被災地で、彼らがすがることのできる唯一具体的な希望だったのである。

 そして、ついに、半年後の9月14日。石巻工場が誇る8号マシンの再稼働の日がやってきた。およそ100人が見守る中、倉田工場長がスイッチを押す。8号マシンは、記録的なスピードで「一発通紙」を果たした。大きな歓声と拍手が起きた。作業員たちはみな、目を赤くしていた。

 「通紙」とは、パルプがメッシュのワイヤーの上に勢いよく吹き付けられてから、最後のリールに巻きつくまでの一連の作業である。同じことを、「紙をつなぐ」ともいう。震災から半年間、石巻工場の作業員たちは、あたかも「紙つなげ!」と叫びながら、復興の作業をつないでいった。それは、その作業に携わったすべての人たちを、つないだ。

 ここがゴールではない。8号マシンがつないだ紙は、待ち望んでいた出版社に運ばれ、書籍へと形を変える。そして、全国の読者に届けられる。出版社が、取次が、書店がつないでいくのだ。ぼくたち書店人は、石巻工場の人々の血と汗と涙の結晶を、一冊たりとも疎かにはできない、と思った。

 著者の佐々涼子は、問いかける。

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