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[書評]『21世紀の貨幣論』

フェリックス・マーティン 著 遠藤真美 訳

木村剛久 著述家・翻訳家

マネーの歴史から金融政策のからくりを探る  

 本書は原題からすれば、さしずめ「挑戦マネー史」といったところ。日本語版タイトルはトマ・ピケティの『21世紀の資本』(みすず書房)に便乗しすぎているような気がする。とはいえ、貨幣論の好著である。

 ちなみに著者は、オックスフォード大学とジョンズ・ホプキンズ大学で学んだあと、世界銀行で10年間勤務し、現在はロンドンでエコノミストとして活躍している。マネーの専門家かつ実務家といってよいだろう。

『21世紀の貨幣論』(フェリックス・マーティン 著 遠藤真美 訳、東洋経済新報社) 定価:本体2600円+税『21世紀の貨幣論』(フェリックス・マーティン 著 遠藤真美 訳、東洋経済新報社) 定価:本体2600円+税

 ふだん使われる貨幣は、たいていお札や硬貨のかたちをしている。しかし、よく考えてみれば、それは紙切れや金属片にすぎない。

 万が一、大金を目の前にしたとしよう。そのとき、ひょっとしたら、おれはキツネにだまされているのではないか、ニセ札をつかまされているのではないか、こいつは子供銀行のおもちゃではないか、というような突拍子もない空想がわいたりしないだろうか。

 おカネがなければ暮らしていけない。けれど不思議なことに、そもそもおカネとはいったい何なのかをあまり深く考えることはない。長い歴史をもつ貨幣の正体は、いまだに謎に包まれているのだ。

 本書は人と貨幣のかかわりを歴史的にふり返り、貨幣に関するさまざまな学説や思想を紹介しながら、現在の貨幣のあり方について考えてみるというスタンスをとっている。

 最初に南太平洋にあるヤップ島の石貨の話がでてくる。この島で農業はおこなわれておらず、島の生活は、ほとんどが採集による自給自足、例外的に家畜としてブタが飼われていた。

 しかし、魚やヤシ、ナマコ、ブタを売る市はあり、なんと驚くべきことに、真ん中に穴のあいた巨大な石、すなわちフェイが、取引用の貨幣として用いられていた。

 この石貨は実際に運搬されることはない。所有者が変わっても同じ場所に置かれている。なかには海に沈んだままになっているフェイもあった。

 経済学では一般に、物々交換の不便さから貨幣が生まれ、時代が進むにつれて、最終的に金や銀が貨幣として用いられるようになったと説明される。しかし、この学説は完全にまちがっている、と著者はいう。物々交換だけで成り立っている経済を目撃した人はだれもいない。ヤップ島の経済も物々交換ではなかった。

 そもそもヤップ島の石貨、フェイとはいったい何なのだろうか。それを持ち運んで交換するのはとても無理である。それでは、フェイはいったいどのように使われているのだろう。

 ヤップ島の住民は魚、ヤシ、ブタ、ナマコを取引する。それは信用売買であって、けっして物々交換ではない。取引にあたっては、債権と債務の関係が生じ、ある期間の終わりに債権と債務が相殺されて決済がなされる。決済後に残された差額は繰り越され、取引の相手が望めばフェイ(石貨)によって支払われるというのである。

 フェイは、もはや金と交換できない現在の紙幣と同じなのだ。クレジットカードと同じだといってもいいかもしれない。貨幣を金や銀と同じ価値をもつ商品だとかんちがいすれば、貨幣の実態を見誤ることになる、と著者はいう。

 貨幣(マネー)の実態は、商品ではなく信用にほかならない。さらにいえば、マネーとは単なる信用ではなく、譲渡できる信用、あるいは譲渡可能な債務なのである。だから、その素材は何であってもよいということになる。

 マネーとは鋳造された金貨や銀貨、あるいは紙幣を指すわけではない。著者によれば、譲渡可能な信用というかたちで、取引を循環させる社会的な工夫こそがマネーだということになる。

 マネーは人を豊かに幸せにするいっぽうで、憎悪や苦悩、狂気におとしいれる道具でもあった。そして、マネーに翻弄されるたびに、人間はマネーという装置を改善する努力を重ねてきた。それを変えていく作業は、さまざまなせめぎあいのなかで、現在もつづいているとみるべきだろう。

 ふたりのジョン、すなわちロックとローの取りあげ方がおもしろい。

 経済学の常識では、アダム・スミスに影響を与えたロックが、近代社会のあり方を示した道徳哲学者として称揚されるのにたいして、ローは紙幣の大量発行によってフランスの経済社会を混乱させた稀代の山師として非難される。

 しかし、著者の評価はまったく逆である。

 ロックは貨幣には一定の貴金属重量が含まれねばならないと考え、マネー世界を一種の自然秩序と定めることによって、市場を時に金融危機のもとにさらした。これにたいし、ローはマネーの管理をはじめてこころみ、貨幣供給量の調節によって民間商業と財政の必要を満たそうとした。

 このくわだては失敗するが、1973年以降に世界が不換紙幣本位の変動為替制に移行したことをみれば、先見の明はむしろローにあったというのである。

 だが、財政問題を解消し、景気をよくするには、金銀の準備高にしばられずに紙幣を発行すればよいというローの金融政策はなぜ水泡に帰したのか。ローは新大陸のフランス領ルイジアナを開発するために、ミシシッピ会社と呼ばれる株式会社をつくり、その株を公債と交換した。

 これでフランスの累積赤字問題は解消。ローはフランスの財務総監の地位も手に入れ、紙幣を大量に発行して、株価を上げ、景気を回復させる奇跡を呼び起こした。ところが、ルイジアナが利益をもたらさないことがわかると株価は暴落し、銀行券も信任を失う。

 いまはクロダノミクスとやらが、ローの失敗の轍を踏まぬことを祈るのみである。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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