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フランソワ・トリュフォー特集が到来!(14)

『恋愛日記』における<書物>の主題など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 前々回も述べたごとく、『恋愛日記』は<女>と<書物>をめぐる典型的なトリュフォー映画だが、トリュフォーはかねて書物が誕生するプロセスを映画で描きたかった、と語っている――「……以前からやってみたかったのは、一冊の書物に生じる[ママ]ことを映画のなかでみせるということでした。本が書かれ、版に組まれ、印刷され、校正刷りが出て装丁が決まる、そして完成されたもの、ひとつのオブジェとして本がそこに出現する、という具合に」(前掲アンヌ・ジラン『トリュフォーの映画術』)。

 これもすでに述べたが、こうしたトリュフォーの書物への愛/執着が乗り移ったかのように、女狂いベルトランは映画の序盤の終わるころ、すなわちランジェリー・ショップの経営者エレーヌに振られた直後、自伝を書こうと思い立ち、その執筆に没頭することになる。女たちへの愛と書物への愛とが、ベルトランの生活の二つの中心になるわけだ。

 しかし当然ながら、ベルトランが本を完成させるまでの道のりは平坦ではない。まず、原稿の清書のためにベルトランが雇った女性タイピストは、彼の原稿に書かれた赤裸々でみだらな内容にショックを受け、辞めてしまう。そしてベルトランは、「自分自身のことをどう語ればよいのか?」という、自伝を書く者にとっては避けて通れない難問にぶつかる。

 その場面でのベルトランのモノローグはこうだ――「書くこと、それはどんな形であれ他人に裁かれることだ。タイピスト女史の判決に、私は正直打ちのめされた。最初の読者に見放されたのだ。一時は書く気をなくしたが、自伝や回想録の古典を読み、自己を語る方法を学び、表現の法則を求めた。しかし、それぞれ[が]異なり、独創的で個性が輝いている。1行1行が作者独自の文体だ。その筆致(エクリチュール)とは指紋のようなものだ。この発見に力を得て[……]、[私は部屋に閉じこもり書きはじめると]思い出がどっとあふれてきた」(なんと見事なモノローグ!)。

 要するにベルトランは、何かを本気で書きはじめた者のつねとして、書くという行為の奥深さに気づきはじめ、「何をどう書くか」に自覚的になっていき、“産みの苦しみ"を味わうのである(身につまされるところだ)。

 <書物>のモチーフに関しては、淋病にかかったベルトランが訪れる泌尿器科医(ジャン・ダステ)の、本の出版についてのアドバイスが実にいい。

 その医者は、ベルトランにまず、食べ過ぎると病気になる、セックスも適度に控えるべきだと言ってから、

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