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[書評]『雪を耕す』

五十嵐進 著

西 浩孝 編集者・大月書店

まやかしを射抜く俳人の告発  

 著者の五十嵐進氏は会津の俳人。県立高校の教員(国語科)を勤め上げ、現在は農をつづけながら喜多方に暮らしている。本書は3・11以後の「フクシマ定点観測記」である。

 タイトルは自身の句「雪を耕す地表の情理刺すために」から。雪は父祖伝来の土地に降り積もる放射性物質のメタファーだろう。

『雪を耕す――フクシマを生きる』(五十嵐進 著 影書房) 定価:本体1800円+税『雪を耕す――フクシマを生きる』(五十嵐進 著 影書房) 定価:本体1800円+税
 では情理とは何か。

 私の解釈では、それは「まやかし」である。

 政治家による、行政による、企業による、マスコミによる、専門家によるまやかし。そしてその状況を「甘んじて」受け入れているわれわれ自身のまやかし。

 「雪を耕す」とはすなわち、心ならずもフクシマと記さなければならなくなったこの地において、まやかしを拒絶して生きるという意思の表明として受けとれる。

 覚えているだろうか。例えば2011年9月、鉢呂吉雄経済産業相が、福島第一原発の周辺市町村について「死の町」と発言したことで辞任に追い込まれたことがあった。

 著者は言う。

 「被災者を思いやるような素振りで咎(とが)め、辞任に追いやったマスコミ・議員・国民の良識こそまやかしである。安っぽいヒューマニズムである」

 したがって「死の町」を生み出したのは誰なのかを問うこともなければ、事の真の重大さを認識することもない。むしろ事態をなるべく低く、弱く、小さく見積もろうとする。

 「風評被害」という言葉もその一例である。どうしようもない災厄が降りかかっているにもかかわらず、みな自己暗示をかけて安心したいのだ。この事実を事実として認めようとしない情理の共犯関係を刺さなければならない。本書の一貫した視点である。

 俳人である著者は、そうした情理を震災後の俳句・俳壇にも見いだす。

 「世間一般と同じように、俳句界ははやばやと何もなかったかのように3・11前のにぎわいに戻りつつある。『原発忌』などという恥知らずな『新しい季語』が早々と『生まれて』さえいる。いや俳句の世界は世間一般以上に通俗的なのだ」

 山も海も川も田も畑も木々も花々も虫も鳥も動物も山の獣も汚染され「死」に瀕している。季語も汚染されずにはすまない。だが「季語が陵辱された」という意識を持たない大方の俳人は十年一日のごとく句を詠み、安易な落としどころを用意する。

 そこには事態への、被災への共振がない。文学者としての想像力がない。だが表現者であるならば、絶体絶命の位置からの言葉・認識を句という器に盛るべきなのだ。

 五十嵐氏の句を引こう。

 「やけに鳴く鳶(とんび)よそこに異変はあるか」
 「盆踊り濡れている人二百人」
 「奴(やつ)をさけさけわけてさけえずに食う」
 「畑を打つ吾なき春の無言域」
 「自由からの逃走狂いアハハ神州」
 「石棺に窓はない日本紅葉」

 怒り、哀しみ、屈辱を火源にして句を作る。「この火源の激しさがあってこその『詩』ではないか」。

 苛烈に告発すべき事態というものがある。もしその憤りを爆発させえないのだとしたら、それは「東北人の礼儀正しさ、我慢強さとかではなく異常なまでの従順さではないのか。飼い慣らされた、去勢されたとでも言ってしまいたい醜態である」。

 この3年半余りに及ぶ氏の「フクシマ定点観測記」から見えてくるのは、意図的なごまかしと誘導の動き、そしてその現状をやすやすと肯定するわれわれの姿である。

 まやかしを射抜く眼を鍛える必要を、これ以上ない気迫で本書は語っている。

 最後にもう一句。

 「真剣を雪で研ぐ心のテロリスト」

 均(なら)された一人ひとりが熟読玩味すべき一書である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。