原武史 著
2015年04月02日
読み止しページにはさむ、しおり糸が付いている。珍しいことではない。だが、2本となると、どうだろうか。事典などを別にすれば、あまり見ない。650ページを超す大冊である。だが、巻末に注記があるわけでもないから、2本に実用性はない。
はたと気づいた。この2本は、つまり天皇と皇后なのである。
近代日本において天皇制が持つ意味は、天皇だけでなく皇后にも注目しないと読み解けない。2本のしおり糸には、著者のこうした思いが可視化されている。
以上は、勝手な推測(憶測か)である。
しかし、2本のしおり糸にそれを込めたかどうかはともかくとして、著者が、近代天皇制の解読には天皇という糸(金色?)だけでなく、皇后という糸(赤?)が必須であることを明らかにすべく本書を書いたことは間違いない。
その意図と成果は本書を読了した読者の多くに肯定的なかたちで伝わったであろう。
近代日本には4人の皇后がいる。本書が最大の対象にしているのは、後に貞明皇太后となる大正天皇の皇后節子(さだこ)である。
天皇が多くの側室を持つのが当然だった明治期までの皇室と違って、大正天皇と節子は、近代の規範である「一夫一婦制」のモデルとなることが求められた。
天皇と節子の間には後の昭和天皇をはじめとする4人の男子が生まれた。公に側室は存在しない。しかし、二人の夫婦関係は当初から必ずしも順調ではなかった。
やがて天皇は原因不明の病に倒れ、宮中祭祀など、天皇としての役割を果たせなくなる。
こうした状況の中、節子はいわばアイデンティティ・クライシスに陥る。血統によってその地位に就く天皇と違って、皇后は「皇后になること」が求められる。それだけに節子のかかえた心の危機は深刻だった。
節子は自己を神功皇后と一体化させ、筧克彦の説く「神(かん)ながらの道」に傾倒することによって、この危機を乗り切ろうとした。
その結果、皇后としては摂政となった息子と、そして皇太后となった後は天皇となった息子と微妙な(ときにはあからさまな)対立と軋轢の日々を過ごす。
『明治天皇紀』『大正天皇実録』、さらにまとまったばかりの『昭和天皇実録』などの公的な記録はもとより、皇族の日記や回想記、侍従や女官を務めた人たちの回想記やインタビュー、さらに中野重治、松本清張、林真理子といった作家の作品……素材を求める著者の貪欲さとその適切な配置は瞠目すべきだろう。
国立国会図書館所蔵などの未公刊史料も少なくない。むろん先行研究の渉猟も怠りがない。巷に流れていたと思しき噂話のたぐいも動員される。
特筆すべきは『貞明皇后御集』などに収められた和歌への注目である。節子の内面を知る直接的史料はない。それだけにこれらの和歌は、作者である節子の折々の内面をうかがう有力な手掛かりである。著者は『御集』などから多くの和歌を引き、要所で自らの論証に援用している。
しかし、著者自身が「現在でいえばツイッターでの連続したつぶやきに近くなっている」と書く節子の和歌に過剰に意味付与することの危うさをしばしば感じたことも否めない。
本書の核心ともいうべき部分について一つだけ例をあげる。1922年3月、神功皇后らを祭る福岡・香椎宮に参拝した際の心境を詠んだ「大みたま吾が身に下り宿りまし 尽すまことをおしひろめませ」という和歌について、著者は次のように書く。
《ここで注目すべきは、筧も指摘するように、皇后節子が「皇后霊」という概念を提示していることである。たとえ神功皇后と血のつながりがなくても、皇后霊が「現在の吾が身に生き輝」くことで、皇后節子は神功皇后と同格になるのだ。》
ここで「筧」とは「筧克彦」である。彼は節子の和歌について「神功皇后様の御霊が現在の吾が身に生き輝き給ひて……」といった注釈を加えている。
深刻なアイデンティティ・クライシスに陥った皇后節子が香椎宮の祭神である神功皇后に救いを求めたことは明らかである。だが、神功皇后という個別の祭神を超えた「皇后霊」という概念がここで提示されているとは思えない。
「皇后霊」という概念を提示しているのは、筧でも、むろん皇后節子でもなく、折口信夫がその天皇論の核にした「天皇霊」に触発された著者自身なのである。
「万世一系の天皇」が統治する国として近代日本は歩みを始めた。天皇のパートナーたる皇后の存在は近代以前と違う意味を持つようになった。とりわけ「一夫一婦制」を規範とした大正期に入って、その存在は一層大きな意味を持つようになった。
皇后節子は、そうした時代を生きた。新しい時代に「皇后になること」を求められた節子の前には「ロール・モデル」として存在した皇后は神功皇后(と光明皇后)だけだったと言っていい。
節子は新しい時代に生きる皇后ないしは皇太后としてのアイデンティティを自ら創り出さなければならなかった。それは、ときにある種の「政治的主体」としての自己を打ち出すかたちにもなっただろう。その結果、本書で著者が詳細に明らかにしているような皇太子(昭和天皇)との軋轢や支配層内部における反発が生まれた。
「皇后霊」という概念を設定せずに、このようにシンプルに理解できないだろうか。
本書、とりわけ後半には「……ではないか」「……ではなかったか」「……かもしれない」といった推測を意味する語尾が頻出する。途中、「皇后霊」でつまずいた評者には、この文体が気になって仕方がなかった。
むろん、これは研究者としての禁欲を示すものだろう(あるいは著者の「書き癖」と言っていいかもしれない)。だが、膨大な史料を縦横無尽に扱い、これまで踏み込まれたことのない領域に切り込んだ著者の見事な力技に感嘆しつつ、本書全体の危うさがこうした文体に露呈している気がした。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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