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加藤登紀子が語る音楽生活50年(下)

「オルタナティヴな生活が、未来を探す場所」

中川右介 編集者、作家

 加藤登紀子は、1969年の『ひとり寝の子守唄』から、『帰りたい帰れない』『別れの数え唄』と3作続けて、作詞作曲も手がけ、自作自演した。現在では珍しくないが、当時、女性のシンガーソングライターはほとんどいない。

加藤登紀子 森山良子さんがもう出ていましたけれど、少ないですね、あの頃のフォークソングは英語ものが多かったんですよね。オリジナルのアンダーグラウンドフォークという中には、女性はいなかったですね。

 作詞作曲を自分でするというのは命取りだと言われていました。私の母が「ついこの前、ギターを始めて、譜面も書けなかったような人が、ねじりはちまきして曲を作って」って笑っていました。

 今も思うんですけれど、古典的なシャンソンは、詩人がいて、その詩に作曲家が珠玉の曲をつけて作るんです。そういう名曲が歴史の中にきら星のようにあるものじゃないですか。そういうものを歌うっていうのは、クラシックの人が絶対のお墨付きの曲を演奏しているのと同じような価値があったんです。

 だけど、シャンソンは、ほとんどシンガーソングライターになりました。シャルル・アズナヴールもそうですし、ジャック・ブレルもそうだし、イヴ・モンタンは違うけれど、ショルジュ・ムスタキもそうだし、だんだん作詞作曲をして当たり前という風になっていくんですよね。

 当時は大きな時代の転換期で、それはアマチュアリズムが脚光を浴びていくってことでした。それは素晴らしいことだったし、面白かった。

 でもやっぱり、歌手としては物足りないんですよね。自分の曲を自分で歌っているということに対する物足りなさがある。

 そんなときに、加藤登紀子が出会ったのが、森繁久彌の『知床旅情』。藤本敏夫が教えてくれた歌だった。

 『知床旅情』のレコーディングをした時は、

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