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[書評]『番犬の流儀』

東京新聞市川隆太遺稿集編纂委員会 編 市川隆太 著

大槻慎二 編集者

稀有なジャーナリスト魂と〈精神のリレー〉  

 ふと気になって、安倍晋三と同じ1954年生まれにどういう人がいるのか調べてみた。

 主だったところ、政治家で言えば下村博文、志位和夫。タレントでは古舘伊知郎、デーブ・スペクター。女優は壇ふみ、秋吉久美子で、ミュージシャンには松任谷由実、アルフィーの坂崎幸之助と高見沢俊彦がいる。作家で言えば松浦寿輝に林真理子。あれ、井沢元彦なんて人もいる。

 さまざまな感想が浮かんでは消える。

 それがなんだと言われればそれまでだが、同じ年生まれがどうしても気になってしまうのは、おそらく自分が成人した年にいわゆる金属バット事件が起きたせいかもしれない。ショックだった。犯人の予備校生は60年生まれで、同年(正確には同学年)である。

 そういうわけで本書にひかれたのはまず、市川隆太という新聞記者がやはり60年生まれで、しかも多くの重要な仕事を遺して惜しまれながらも2014年の7月に亡くなっていたことだった。54歳。お互いにまだまだこれから、というところだ。

『番犬の流儀――東京新聞記者・市川隆太の仕事』(東京新聞市川隆太遺稿集編纂委員会 編 市川隆太 著 明石書店) 定価:本体2000円+税『番犬の流儀――東京新聞記者・市川隆太の仕事』(東京新聞市川隆太遺稿集編纂委員会 編 市川隆太 著 明石書店) 定価:本体2000円+税
 そしてまた東京新聞好きのご多分にもれず〈こちら特報部〉の大ファンとして、この欄で著者が手がけた多くの名記事をまとめて読めることに胸がときめいた。

 本書を通読してまず口を突いて出てくるのは、「この道はいつか来た道」という新鮮な発見だ。

 それが戦前回帰ということであれば新鮮でも何でもないが、ここで言う「いつか来た道」とは“ついこの間”の近過去を指す。

 たとえば著者が健筆をふるった2006年の〈共謀罪導入に反対するキャンペーン〉に見られる同法案の審議過程である。

 安倍が官房長官時代から優先課題としていた共謀罪創設法案は、まずこれを作らなければ国連の国際組織犯罪防止条約を批准できない、という国際状況の変化、ないしは外圧を立法事実(提出した法案が必要な背景事情)としていた。

 これはまさに、安全保障環境の変化(アメリカの弱体化と中国の脅威)を立法事実とする安保法制に重なる。

 この法案は日本の法体系になじまないとして、野党や法曹界から猛攻撃を浴びるが、審議を進めるにつれて与党側のボロが次々と出てくるところも似ていて、中途で唯一の立法事実としていた国連の条約の批准にも共謀罪の法案化は必要ないことが判明。終いには従来推進派だった西原春夫・元早大総長や元法務・検察首脳からも反対論が出て、「超大物OBが苦言を呈すること自体、いかに拙劣な法案だったかを物語っている」と日弁連関係者が口を揃えるところも、安保法制を彷彿とさせる。

 また野党民主党が出した対案を、与党が丸のみ譲歩する姿勢を見せる場面もあったが、「丸のみ成立、のちに修正」という与党の思惑がバレバレで大反発を食らうなどという経緯も、今後の安保法制の審議について大いに参考になるかもしれない。

 ちなみに共謀罪というのは、法律違反せずとも話し合っただけで有罪となるもので、しかも客観的な会合の事実がなくとも、違反行為を認識し許容すれば罪に問われることもある。

 いわば「心の内面」にまで捜査が踏み込むもので、となればもう戦前の特高警察のような組織を作るしかない。密告が跋扈する戦時中のような暗黒社会を生むことは必至で、著者は稲田朋美や櫻井よしこのような人からも「稀代の悪法」として反対する言質を取っている。

 これはまさに「ついこの間」のことで、こういう審議の経緯が後になって追認できるのもここにジャーナリズムがちゃんと機能していた証だし、実際このキャンペーンが反対世論を盛り上げて、強行採決を食い止めた事実は重い。ジャーナリストというのはここまで重要な仕事が出来るのだという見本のようなものだ。

 もちろんあってはならぬことだが、この先安倍政権が延命したとして、再び共謀罪を持ち出すのは想像に難くない。秘密保護法と抱き合わせにすれば、まさに戦前回帰への強力な武器となるのだから。

 そのときになって稲田や櫻井のような極右思想の持ち主がどう前言を翻すか。これもまた高村正彦が集団的自衛権が違憲か合憲かで180度見解を変えたことが頭をよぎる。

 この共謀罪のみならず、ついこの間の「いつか来た道」を思わせるエレメントは本書の至るところに散りばめられている。

 しかし、やはり最も心に響くのは、著者のジャーナリストとしての自己凝視とその倫理性が、いまの低迷するジャーナリズムに打ち込むくさびの深さだ。

 大学を出てテレビ東京に就職した著者は、その後親会社の日経新聞に出向した。

 そこで取材先のIT企業の社長から万札が30枚ほど入った封筒を手渡され、面食らって必死の思いで突き返す。殺人現場を見てしまった少年みたいに階段を駆け降りた著者は、先輩記者の苦々しいせりふを思い出す。

 「企業も役所も、俺たちをブンヤと思っちゃいない。広告、書かしてるつもりなんだぜ」

 そして路上の空き缶を蹴っ飛ばす。フィクションまじりに記した文章だが、結びの言葉「記者って、魂を売り払えば、一瞬で地獄行きの切符を手にできる、本当に怖い仕事だ」は紛れもなく本心だろう。

 そうしてその後の長い東京新聞での記者生活を経て、著者は新聞記者の要諦を次のように記す。

 「簡単なことだと思う。要は『強きをくじき、弱きを助く』の精神だ。(略)新聞がいちばん怖いのは首相でも検事総長でもない。読者だ。当局寄りのメディアや当局チェックを放棄してしまう記者を読者が見放した時、事件報道は革命的に変わらざるをえなくなる」

 確かに志なかばかもしれない。けれども本書に結実した“番犬の魂”は遺されたものに多大な勇気を与え続ける。

 その〈精神のリレー〉を可能ならしめているのは、えてして時代の激流に埋もれてしまいがちなひとりの新聞記者の文章を、こうして1冊の本にまとめてくれた〈遺稿集編纂委員会〉、すなわち東京新聞の職場の仲間たちの友情と職業倫理によるのだと思う。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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