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[書評]『戦争と平和 ある観察』

中井久夫 著

大槻慎二 編集者

「恐るべき予言の書」あるいは「もはや古典の域」 

 多くの本読みがそうするように、私も気にかかる箇所に線を引っ張りながら読むのだが、鉛筆を片手に本書を読み進めていくうちに、困った事態に陥った。線を引っ張る箇所が多すぎて、これでは線など引かずにおくのと何ら変わりがなくなってしまう。仕方なく私はもう一冊新しいのを買い求めることにした。

『戦争と平和――ある観察』(中井久夫 著 人文書院) 定価:本体2300円+税『戦争と平和 ある観察』(中井久夫 著 人文書院) 定価:本体2300円+税
 本書の中心となる論考「戦争と平和 ある観察」は、2005年、甲南大学人間科学研究所のシンポジウムの一環として発表され、まずは『埋没と亡霊 トラウマ概念の再吟味』(森茂起編、人文書院)という本に収録された。

 その翌年、みすず書房から出した著者のエッセイ集『樹をみつめて』に転載され、そして今回、再び人文書院がこれを取り戻して表題作とし、一冊の本として作り直したことになる。

 編集者の強い思いが伺われる一方、この論考は形を変えて何度も何度も読み返されるべきものであることが納得される。

 戦争と平和について的確に捉える言葉の数々は、もはや古典と言っていい域に達している。

 そしてまた初出から10年を経た現在の政治状況下で読み返すと、何とも恐るべき予言の書だとも思われるのだ。

 「戦争と平和というが、両者は決して対称的概念ではない。前者は進行してゆく『過程』であり、平和はゆらぎを持つが『状態』である。一般に『過程』は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語りになる。これに対して『状態』は多面的で、名づけがたく、語りにくく、つかみどころがない」

 「(平和の)秩序を維持するほうが格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片づけるのとの違いである。戦争では散らかす『過程』が優勢である。戦争は男性の中の散らかす『子ども性』が水を得た魚のようになる」

 「さらに、『平和』さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガンは『戦争をなくするための戦争』であり、日中戦争では『東洋永遠の平和』であった」

 「また平和運動の中には近親憎悪的な内部対立が起こる傾向がある。時とともに、平和を唱える者は同調者しか共鳴しないことばを語って足れりとするようになる」

 「実際、人間が端的に求めるものは『平和』よりも『安全保障感 security feeling』である」

 「『安全保障感』希求は平和維持のほうを選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに『安全の脅威』こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに『安全の脅威』ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない」

 「戦争への心理的準備は、国家が個人の生死を越えた存在であるという言説がどこからとなく生まれるあたりから始まる」

 「戦争が始まるぎりぎりの直前まで、すべての人間は『戦争』の外にあり、外から戦争を眺めている。この時、戦争は人ごとであり、床屋政談の種である。開戦とともに戦争はすべての人の地平線を覆う」

 どこまでも引用を続けたい誘惑に駆られるが、それでは書評にならない。「買って読め」のひと言で足りる。

 繰り返すがこれらのことを著者が言っているのは2005年の時点なのである。

 著者はこの論考を「四苦八苦の産物」と言い「難産だった」と述懐するが(『樹をみつめて』あとがき)、ところがどうして、その言葉たちの射程距離は遥かに遠く、照準は限りなく正確である。

 戦争と平和についての確かな認識(科学)が過不足なく適正な言葉(詩)に置き換わったとき、たとえどんなに酷い現実に触れようともその言葉は生きて読む者の腑に落ち、安堵と勇気を与える。

 いわば科学と詩が結びついた幸運な例であるが、この対極にあるのが今の政権与党の政治家たちの言葉だろう。

 今回の国会で壊されたのは何よりもまず日本語である、という高村薫さんの意見(東京新聞 2015年9月18日)にまったく同意するし、評判になったSEALDsの奥田愛基さんの国会での演説でも白眉の部分、この状況(デモ)を作ったのはまさにあなたたちだ、というのも、付言すれば「あなたたちの言葉の出鱈目さのせいだ」とも言えるだろう。

 人はある政策の是非を論ずる前に、嘘で固めた言葉、破壊された統辞法が大手を振ってまかり通っていることに、果てしない不安を覚えるものだ。

 論考は進んで、古今東西の戦争の歴史を透徹した言葉で紡いでゆく。

 「戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない」

 そう記す著者は、今上天皇と同い歳、まさに戦争を知る世代である。どころか一族には軍隊と切っても切れない縁がある。その著者が極めて冷静な分析をもって述べる次の言葉に刮目する。

 「日本は、663年の唐に対する白村江の敗戦以来、対外戦争の決定的な敗北がなく、本土を占領されたこともなかったという希有な地域である。(中略)戦後の改革は、千三百年以前の変化に似ている。それは白村江の敗戦後の変化である。この敗戦を機に『倭国』は部族国家集合体であることをやめて、『日本』となり、唐に倣った位階制の存在を強調して中央集権官僚国家を発足させ、大使・留学生を派遣して唐主導下の平和に積極的に参加した。外征を一挙に停止し専守防衛に転じて北九州に城壁を築き、防人を張りつけた」

 すなわち、白村江の敗戦の後に倭国から日本になったように、先の敗戦によって日本は本当の日本になった。米国から押し付けられたといくら言われようと、日本国憲法は日本人の血肉と化して今日の日本を作った、ということだろう。

 この論考の秀逸さを支えるように、本書には直近に行われた語り下ろしの対談がふたつ収められている。日本近現代史の研究者、加藤陽子氏とのものと、神戸の海文堂書店の元社長、島田誠氏とのものである。

 前者は中井さんの長年のファンであり、なおかつ『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)の著者として、中井家と戦争の関係に日本の近現代史を絡めつつ、縦横に話を引きだしている。

 そうして後者は戦後という空間で、ふたつの大震災が現在の日本の有り様にどれだけ重要なものをもたらしているかということ、それに何より著者は思想のバックグラウンドに、常に神戸という愛すべき土地を持っていることをよく伝えている。

 その他、著者単独の語り下ろしや書き下ろしエッセイも加わってこれらに焦点が当てられているが、残念ながら詳細を記せない。

 ただ、加藤氏との対談の終盤になって、著者がこう語る箇所が妙に印象に残る。

 中井 東京ではそんなことになっているの? 安倍さん、彼は本当に戦争が好きなの? 『戦後のレジーム』っていうのは本当にレジームの意味でつかっているのかな?
 加藤 (前略)中井先生のいわれる通り、安倍総理が、本当のレジームという意味を知った上で、この言葉を用いているとは思えません。(後略)
 中井 わたしが知っている中国人は日本と戦争するなんて考えてもいないよ。

 このやりとりの行間から、その場での何とも言えない馬鹿馬鹿しさ、呆れてものも言えない感じが、ため息とともに伝わってくるのである。

 *ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。