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山本義隆の回想録にあふれる危機への思い(下)

3・11以降の日本に対する重要な問題提起

野上 暁 評論家・児童文学者

 山本義隆は1964年に大学院に進み、物理教室の素粒子論研究室で学びながら、日韓闘争などのデモに出かける。

 「このころのデモでは、完全武装の機動隊にサンドイッチされ、その内側で私たちはボコボコにされていた」と山本は記しているが、60年代中頃の学生運動は停滞の極致にあり、デモの参加者は極めて少なかった。筆者も日韓闘争デモで機動隊にもみくちゃにされて、メガネを壊されたりなくしたりした。

安田講堂封鎖解除について記者会見 1969117安田講堂封鎖解除についての記者会見で=1969年1月17日
 その後、66年9月に理学部、工学部、経済学部の大学院生や助手が中心になって、東大ベトナム反戦会議が発足し、67年の砂川闘争や京大生の山崎博昭君の命が奪われた10・8の第一次羽田闘争、王子の野戦病院撤去闘争などを経て、68年1月、東大医学部と青医連が登録医制度に反対してストライキに入り、その処分などがきっかけとなって東大闘争に入っていく。

 そして山本は、東大全共闘代表としてマスコミにも取り上げられるようになるのだが、東大闘争の意義について次のように分析している。

 「東大闘争は、学生処分等に見られる国大協と東京大学の学生管理の問題を問うていた」のだが、「東京大学で営まれている学問や研究そのものの問題性を問うまで深化して」いた。

 1968年は明治維新からちょうど100年だが、「明治以来の国策として推進されてきた日本の科学と技術そのものと、その過程を中心的に担ってきた東京大学を問題としていた」のだと。

科学技術史と東大とのかかわり

 そして、科学史家である山本ならではの日本の科学技術史と、東大との深いかかわりが論究されていく。

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