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[書評]『医者をめざす君へ』

山田倫太郎 著

大槻慎二 編集者

“いのちの初心”に還らせる人生の教科書  

 山田倫太郎くんは中学2年生。「フォンタン術症候群(房室交差)」という先天性の障害を持っている。左心室と右心室が分かれていないという1万4000人にひとりの難病で、赤ちゃんの頃から大きな手術を繰り返し、生死の狭間をさまよってきたが、心臓移植手術の対象ではないため根治は難しく、通院しながら対処療法を続けるほかない。

 その倫太郎くんが、「お兄ちゃんの病気を治すお医者さんになりたい」という4歳の弟に向けて著したのが本書である。

『医者をめざす君へ』(山田倫太郎 著 東洋経済新報社) 定価:本体900円+税『医者をめざす君へ』(山田倫太郎 著 東洋経済新報社) 定価:本体900円+税
 といってもこれは、恰好の美談にライターや編集者が寄ってたかって“それ風に”調理したものではない。

 きっかけは「とてもいい文や絵を描く中学生がいるんだ」と医師から連絡を受け、中日新聞の安藤明夫記者とともに駆けつけた朝日新聞の阿久沢悦子記者が紙面にて紹介したことだった。

 その記事はツイッターやフェイスブックでたちまち拡散し、出版に至った。版元は最初、インターネットでオンデマンド出版したが、注文が殺到したため9月に書店販売に切り替えた。

 本書の頭の方に、倫太郎くんの手書き原稿の写真が載っている。

 鉛筆の丁寧な文字で、きっちりとマス目を埋めたその原稿は美しい。生原稿を読むことから編集者を始めた身にとっては、書き手のさまざまな生理が伝わってきて実に興味深い。

 そしてその丁寧な文字に相応しく、倫太郎くんは真っ直ぐな目で「生きてある」ことの尊さを見つめ、それを律義な言葉で掴んでそっと置く。

 〈患者が望む理想の医者 8ヶ条〉を含んだ表題名と同じ章が本書の中心を成すのだが、その前に置かれた「命の尊さ」と「差別をなくすには」の二つの章がまた出色である。

 「皆さんは命の尊さについて考えたことがありますか? 命はとても尊いものです。しかし最近、自殺のニュースをよく耳にします。僕はその度に怒っています。僕がこんなに命の尊さについて考える理由は、四つあります」

 その四つとは、第一に2歳で心肺停止状態に陥ったときの周囲の人々の奮闘ぶりを後で聞き、「それほど人に支えられている」のだと知ったから。第二に「僕も生きるために頑張って来た」から。第三に小学校1年の冬に入院したとき、同じ病棟の子供が亡くなり、その子の母親の声がとても悲しそうだったから。第四に、お母さんが弟くんを身籠った時の苦しさを見て、その辛さを知ったから。

 そしてこう結論する。

 「皆さんのお母さんも、10ヶ月間こんなに苦しい思いをしても、皆さんに会いたいと思う一心で頑張ってくれたのです。そして、生まれてからも多くの人々に支えられて、今の自分があるのです。/けれど中には『自分の命だから、自殺なんて自分の勝手』と考える人もいるでしょう。しかし、人間は一人一人が互いに支え合って生きています。自殺は周りの人を悲しませるのでいけません。以上の事から、自分の命を大切にして下さい。他の人の命も大切にする事が出来ます」

 「以上の事から」という接続句が実にいい。

 差別については、生まれつき障害を持った者としてその認識の深さが違う。

 「障害を持っていても、心は皆と同じだと思います。(中略)背の高い人、低い人がいるように、障害もその人の個性だと思っています。障害もその人を表す色なのです」

 と述べた後、倫太郎くんはこう結論する。「差別は間違った知識から生まれてくる」のだと。

 序文を書いた阿久沢記者によれば、「ユーモアがあり、美人に弱く、おじいちゃん仕込みの昭和オヤジギャグを連発する魅力溢れる」倫太郎くんの夢は、「自分の本を出す」ことだった。

 小さいころから「あとがき」が大好きで、絵本を読んでもらっても「あとがき」を飛ばされると怒る、というほど“本の通”でもある倫太郎くんが著したこの本は、ものの30分もあれば誰でも通読できる。

 しかしその言葉は、なぜ生きなくてはならないか、なぜ人の命を大切にしなければならないか、という人間の基本に立ち返らせる力を秘めている。朝起きると毎日、信じられないようなニュースが飛び込んでくるこの国のいまにあっては、なおさらそれが貴重に思える。

 倫太郎くんが言う通り、障害者も健常者も「心」が対等であれば、子どもと大人もまたしかりだろう。

 とすれば、政府肝いりの「教育改革国民会議」資料に「子どもを厳しく『飼い馴らす』必要がある」と書いた(首相官邸ホームページに載っています)政治家の心が、倫太郎くんの言葉の前でいかにさもしく醜悪に映ることか。

 また、障害を持った子どもが産まれてくれば社会的コストがかかるから、出産前にどうにかならないか、と発言した茨城県教育委員会(当時)の長谷川智恵子氏などは、齢70を超えてなお生きることの意味をまったくわきまえていない(おそらく一生知りえない)みじめな存在である。

 そしてまた思う。倫太郎くんと周りの医師たちの関係こそ、戦後の日本が手にした“美しさ”ではないか。

 それをいま、壊そうとしているのがTPP(環太平洋経済連携協定)である。問題のISD(投資家対国家間の紛争解決)条項だが、政府は医療に関することには及ばないとしているが、これまでのなしくずし的な政権与党のやり方を見れば、信が置けるわけがない。いつアメリカのように、患者と医師の関係が金勘定だけに左右されることになるかわからない。

 映画『シッコ』でアメリカの医療の実態を痛快なまでに描いたマイケル・ムーア氏が、もし倫太郎くんのいる病院を知ったら、かの国の対極にある光景に、迷わずフィルムを回していたことだろう。

 先日『医療崩壊』の著者、小松秀樹氏が、「国と千葉県を批判したこと」を理由に副院長を務める亀田総合病院から懲戒免職処分を受けたが、この国の危機はもうそこまで来ている。

 4歳の弟くんが将来その志をまっとうできる社会を維持し続けられるかどうかは、まったく「今」の問題である。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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