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必見! ベルトルッチ『暗殺の森』(中)

“正常さ”という病 

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 前回述べたように、『暗殺の森』の主人公マルチェッロ/ジャン=ルイ・トランティニアンは、少年時代に自分を犯そうとした同性愛者を銃撃した罪悪感を引きずったまま成人した男だ。

 そして彼は、自分が異常者=罪人であるという過剰な負い目を払拭すべく――つまり「正常なマジョリティー」になるための贖罪行為として――ファシスト党の一員となったのだった。

「正常さ」の定義

ベルナルド・ベルトルッチベルナルド・ベルトルッチ監督=2013年
 興味深いのは、マルチェッロの<贖罪>が、ファシスト党加入とほぼ同時期に、文字どおりカトリック司祭の前での懺悔(ざんげ)、すなわち過去のトラウマの告白という形でなされる点だ。

 懺悔とはむろん、罪を告白し、神の許しを請うことだが、その懺悔のシーンで、聴聞司祭(ちょうもんしさい)はマルチェッロに、正常とは結婚し家族を持つことだ、と説く。

 ここで示されるのは、「正常」な生活規範として家族作りを推奨し、ファシスト体制の補完装置として機能する宗教=カトリックの性格である。

 さらに注目すべきは、このシーンで挿入されるマルチェッロの独白、「私はなんとか自分の正常さを作りあげたい」であるが、つまり彼にとっては、司祭の前での懺悔=贖罪、および司祭の諭(さと)しに従って結婚することが、ファシスト党加入とともに「正常さ」に順応するための――いわば「健全な父性」の仮面をかぶるための――手続きとなるのだ。

 「正常さ」に関しては、マルチェッロの結婚パーティで盲人イタロが口にする、次のセリフがふるっている――「通りを行く美人の尻を振り返って眺めて、

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