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[8]「子殺し」「親殺し」考 『晩春』1

末延芳晴 評論家

 拙著『原節子、号泣す』(集英社新書)の第九章「失われた自然的時間共同体」のなかで、私は、小津映画の頂点とでも言うべき『晩春』、『麦秋』、『東京物語』と連なる「紀子三部作」を通して、小津安二郎が表出した思想的根本主題について、かつて日本人が生きた幸福なる生活の源泉ともいうべき、古典的、自然的時間共同体の崩壊・消滅という視点から、「笠智衆は、死んだ妻や息子と同化することによって自らの存在を時計と化し、その時計を原節子に手渡すことで、人間が人間として美しく、調和を奏でて生きていくことを可能にする、大いなる時間の共同体は崩壊・終焉し、失われてしまったという、小津の思想を極めてシンプルに、美しく表出したのである」と記した。

 そのように記した時点で、私は、小津映画の思想的主題性を読み切ったと信じていた。

隠された主題を発見

 ところが、『原節子、号泣す』が刊行されたあと、その続編として『笠智衆と小津映画』の原稿を書き進めるかたわら、「京都漱石の会」の代表・丹治伊津子氏から小津映画連続鑑賞会の講師に招かれ、その準備のため再び「紀子三部作」を何度も見直したことで、これら作品の根底に、結婚適齢期を過ぎかけた娘の見合いを巡る父と娘、あるいは家族間の対立と葛藤という、日本のどこの家庭でもありそうなドラマの表向きの主題の裏側に、もう一つ隠された形で、動物的存在としての人間の生の本質にかかわる、極めて深刻で、悲劇的、かつ普遍的な主題が描き込まれていることを発見、小津映画の底の深さに改めて驚かされた。 

 その隠された主題とは、霊長類の頂点に立つ存在とはいえ、人間もまた、

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