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[書評]『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』

池内恵 著

木村剛久 著述家・翻訳家

中東の戦争はいつまでつづくのか  

 イスラム世界をめぐって痛ましいできごとが頻発するたびに、茫然と立ちすくむほかない日々がつづいている。

 ぼくにとっても、イスラム教や中東問題はなじみがなく、わかりにくい。大きな事件が起こると、さまざまな解説がメディアにあふれ、一瞬わかったような気にさせられるものの、それも忘れたころに、つづいて別の事件が発生し、その都度うろたえる。

 本書は100年前にさかのぼって、中東大混迷の根源を探ろうとする意欲作である。

『【中東大混迷を解く】サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(池内恵 著 新潮選書) 定価:本体1000円+税『【中東大混迷を解く】サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(池内恵 著 新潮選書) 定価:本体1000円+税
 内戦、大国の干渉、クルド独立、難民問題など、現在につながる中東の混乱は、すでにそのころからはじまっていた。それが「百年の呪縛」だとすれば、その源にさかのぼる以外に、呪縛を解く鍵はみつからないだろう。

 100年前といえば、当時、中東全域を支配していたオスマントルコ帝国が、ドイツ側に立って第1次世界大戦を戦い、三国協商側(イギリス、フランス、ロシア)に手痛い敗北を喫していたころである。映画『アラビアのロレンス』は、当時の雰囲気をみごとに描いている。

 1916年5月、イギリスとフランスの外交官、マーク・サイクスとフランソワ・ジョルジュ=ピコのあいだで、オスマン帝国の領土分割をめぐって、早々とある秘密協定が結ばれた。それがサイクス=ピコ協定である。

 のちにはロシアもこの協定に加わり、オスマン帝国の分割に拍車がかかった。この秘密協定の存在が明らかになったのは、1917年にロシア革命が発生し、ボリシェヴィキ政権が中東をめぐる秘密外交の実態を暴露したためである。

 協定によると、イギリスはイラク中部のバグダードから南部のバスラまで、そしてクウェートを、フランスはアナトリア中南部から東地中海のベイルートあたりまでを直接統治領とする。そして、両国の統治領のあいだに緩衝地帯を設け、北部(現在のシリア、イラク北部)をフランス、南部(現在のヨルダン、イラク南部)をイギリスの勢力圏と定めた。エルサレム周辺は国際管理地域とした。そして、ロシアには黒海南部、アナトリア北東部の地域が勢力範囲として与えられることになっていた。

 現在の中東の混迷は、しばしば、このサイクス=ピコ協定の強引な線引きにもとづくとされる。現在のシリア、レバノン、イラク、ヨルダン、クウェート、イスラエルなどは、英仏による中東分割を決めたこの協定をもとに生まれたといってもよいからだ。

 ところが、協定は最初から矛盾を含んでいた。イギリスは前年の1915年にメッカの太守ハーシム家のフサイン・イブン・アリーと、いわゆるフサイン=マクマホン協定を結んでいる。それはイギリスがフサインによるオスマン帝国との戦いを支援し、フサインが勝利したあかつきにはアラブ王国の独立を認めるというもの。「アラビアのロレンス」ことT・E・ロレンスの活躍は、この協定にもとづく。ハーシム家が指揮する軍は、ヒジャーズ(アラビア半島紅海沿岸地方)、ヨルダンのアカバ、シリアのダマスカスを占領した。

 さらに中東の状況を複雑にしたのが、1917年のバルフォア宣言だった。この宣言により、イギリスはパレスチナにおけるユダヤ民族の郷土設立を支援することになった。こうして、イギリスはアラブ王国の独立とパレスチナでのユダヤ人郷土建設を約束するいっぽうで、フランスとのあいだで中東の領土を分割するという外交的綱渡りを開始するのだ。

 では、サイクス=ピコ協定がほんとうに諸悪の根源だったのか。著者は、その点を疑う。というのも、この協定によって確定された領土をいったん白紙に戻して、このあたりをひとまとめの国にするといっても、そう簡単にはいかないからだ。

 そうなれば、国家の枠と主導権をめぐって、はてしない戦争が発生し、いま以上に膨大な難民が発生するだろう。この地域にはさまざまな部族や宗教、宗派が入り乱れている。それをまとめることなど、そもそもできるのだろうか。凶暴の度を増すイスラム国(IS)が、この地域を制するとは、とても思えない。

 サイクス=ピコ協定は、オスマン帝国崩壊後の混乱を収拾するための、ひとつの解決案だった、と著者はいう。実際には、協定はそのまま実現されたわけではなかった。第1次世界大戦後に結ばれたセーヴル条約(1920年)と、ローザンヌ条約(1923年)によって、サイクス=ピコ協定は大きく修正される。英仏露による中東分割は画餅に帰した、と著者はいう。

 1920年のセーヴル条約は、トルコの領土をさらに分割し、フランス、イギリス、ギリシャ、イタリアの勢力圏を拡大し、クルド自治領を定めることをめざしていた。ところが、ここでトルコ人の民族感情に火がつく。ムスタファ・ケマル・アタテュルクが組織したアンカラ政府が、セーヴル条約を拒否し、トルコ独立戦争を戦って、分割されようとした領土を確保したのだ。こうして、1923年のローザンヌ条約によって、現在のトルコ共和国の領土がほぼ確定する。

 だから、「現在の中東の国家と国際秩序は、サイクス=ピコ協定をそのまま現実化したものではない」と、著者は書いている。アラブの台頭とトルコの復活が、イギリスとフランスによる中東分割の前に立ちはだかったともいえる。

 とはいえ、イギリスとフランスが中東にその後も大きな影響をおよぼしつづけたことは否定できない。加えて、ユダヤ人の郷土と認められたパレスチナが、大きな火種となりつつあった。

 ちょうどこのころ、ジュネーヴに本部を置いた国際連盟で、委任統治委員を務めていたひとりの日本人がいた。委任統治委員会は、第1次世界大戦後、国際連盟の委任統治領となったドイツ、オスマントルコの旧植民地を監督・査察することを目的とし、その委員は委任統治にあたる7カ国の民間人によって構成されていた。

 当時は、フランスがシリアやレバノン、東カメルーンなど、イギリスがパレスチナやトランスヨルダン(現ヨルダン)、イラク、タンガニーカ(現タンザニア)など、日本は赤道以北の南洋群島(グアムを除く)の統治を委任されていた。

 1921年から23年まで日本の委員を務めていた人物は、外務省の官僚主義に辟易しながら、委任統治領での民族対立や経済的待遇の問題に取り組み、とりわけパレスチナのユダヤ郷土建設の問題にひとかたならぬ関心をいだいた。外務省に10週間のパレスチナ出張を申請したくらいだから、その熱心さがうかがえる。

 出張予算は同行者分もあわせて500ポンド(現在の金額にして700万円程度)だったというから、某都知事の外遊費用に比べればささやかなものである。しかし、外務省はその出張申請を認めなかった。イギリスを刺激するのはよくないし、行くなら本省の人間が行くべきだと横やりがはいったからだ。

 こうして、この人物、すなわち柳田国男のパレスチナ出張はまぼろしとなった。だが、それでもかれは委任統治委員会に提出した英文報告書のなかで、「入植を全面的に禁止するのはむずかしいにしても、各国政府のとるべき道は、原住民を抑圧要因から守るために、これまでにない適切な措置をとることだ」と論じている。いま柳田のことをふと思いだしたのは、日本にも、当時から中東の問題に強い関心をいだいた人物がいたことを知ってもらいたかったからだ。

 その後の歴史の激動は知ってのとおりである。2011年の「アラブの春」をきっかけとして、中東の国際秩序は大きく揺らぎはじめた。シリア、イラクだけではなく、イエメンやリビアでは、いまも内戦や紛争がつづいている。ブッシュ政権時代に中東に過剰介入したアメリカは、現在、中東への関与をできるだけ弱めようとしている。これにたいし、存在感を高めているのが、プーチンのロシアだ。

 著者はサイクス=ピコ協定で基本線が描かれた中東の国際秩序は、現在もはや限界に達しているという。いつか、何らかの新協定が締結されねばならない。だが、新協定は米ロを中心とした大国が合意すればできあがるというものではない。関係国の諸勢力、地域大国、それに域外の大国の合意にもとづく新たな秩序形成が求められる、と著者はいう。

 それは気の遠くなるような過程となるだろう。ユーゴスラヴィアが解体されたとき、ボスニア・ヘルツェゴヴィナで1992年から95年にかけて凄惨な内戦がくり広げられたことを思いだす。そして、あのときは1995年のデイトン合意をへて、平和協定が結ばれたのだった。

 新たな国家が生まれるときは、やはり最初に口火を切るのは暴力で、話し合いは最後になってようやくなされるほかないのだろうか。

 中東の紛争はいつになったら終わるのか、予想もつかない。サイクス=ピコ協定を完全に過去のものとする新たな協定が、いずれ必要になることは、本書からも理解できる。しかし、あの協定から100年たったいまも、中東ではまだ激しい戦闘がつづき、それが世界じゅうに飛び火している。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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