内田樹 白井聡 著
2016年08月05日
『属国民主主義論——この支配からいつ卒業できるのか』(内田樹 白井聡 著 東洋経済新報社)
「属国」とは、極端に言えば傀儡政権が操る国。「民主主義」は、主体的な主権者(国民)が主役になって成立するものだ。だとしたら、対立することはあっても両立することなどないはず。
にもかかわらずこの日本では、互いに相容れぬ二つが、不思議なことに、さしたる葛藤もなく同居し続けてきた。世の中には常識では考えられぬことが起こる。本書が突くのはそこだ。なぜ、そんな矛盾が続いてきたのだろう。
本書に拠ってその理由をまとめてみよう。
一つには、東西冷戦が開始されたころに、「敗戦」を「終戦」と言い換えたことに象徴される「敗戦の否認」、つまり歴史修正主義的な欲望が、政権中枢と国民のかなりの部分に、昔も今も存在しているから(沖縄を含む、対アジアの戦後処理の問題が、今も燻り続けていることの根本原因は、元を糺(ただ)せばこの欲望にあるのかもしれない)。
もう一つは、冷戦の影響下で片面講和したことが引き金になって、日本に原爆を落とし、占領国でもあったアメリカに宗主国的な力が生じ、軍事、政治、社会、文化の全ての面で、圧倒的な影響と支配を受けることになったこと。
それは、「戦争」と「敗戦」がもたらした多くの都合の悪い現実には目をつぶって沈黙し、利があれば力のある相手に自ら擦り寄るという、アクロバティックな捩(ねじ)れを生んだ(この捩れに対する根本的な批判となっているのが、2013年に「主権回復の日」と制定されたサンフランシスコ条約発効日である4月28日を、日本から沖縄が切り離された日として「4.28沖縄デー」と呼び、日本の「属国性」を早くから糾弾してきた沖縄の人々の存在だろう)。
さらに、この捩れを無自覚に保持したまま、国民一丸となって「(戦後)民主主義」に夢を託し、「敗戦」の忘却と引き換えに、この国を西側に属する「独立国家」であると思い込んできたこと(この「民主主義」が仮構されたものであり、ある意味で幻想でさえあることは、事あるごとに繰り返される国会の「強硬採決」の歴史を見るだけでも明らかだろう)。
以上、「敗戦の否認」「アメリカのプレゼンス」「仮構された(底の浅い)民主主義」の三つが絡み合って成立したのが「属国民主主義」だと、ひとまずまとめて差し支えないと思う。
で、その結果、何が起きたか。
たとえば本書の冒頭部分で、白井聡は言う。――国会で山本太郎議員が、「安倍政権の目玉政策は(アメリカの元国務副長官の書いた)「アーミテージ・レポート(TPP交渉参加や安保法制の見直しを促したもの)の引き写しではないか」と追及したことがあります。……それを聞いたときの他の議員たちの反応が象徴的でした。「それを言ったらおしまいだろう」……「そんなことぐらい、国会議員ならみんな知っている。……何を野暮なことを……という反応で、「日本はアメリカの属国である」という状況を完全に容認してしまっている――と。
しかしながらこの時代、旧態依然たる「属国」のままでは、さすがにもう危ない。本書では、そんな危機意識を共有する、親子ほど年の違う二人が、日本の現状を幅広く語り合う。「民主主義と国家意識の現在」、「コスパ(コスト・パフォーマンス)化する消費社会」、「進行する社会の幼稚化」など、多くの違った角度から日本の病弊と昨今の劣化を見つめ、眼前に立ちふさがるグローバリゼーションの壁の先に、何とか明るい光を見出そうとする苦悩の対談だと言っていい。
その苦渋は、「はじめに」にある白井の「(オバマのヒロシマ訪問を受け入れた動機は「参院選」だったという今の内閣に)私は眩暈を覚えています。この政権を選んだのは私たちです。私たちはここまで堕ちました。……しかし、それをはっきりと見定めるところからしか、私たちは出発できないのです」ということばや、内田の「夕陽の荒野をとぼとぼと歩いていく青年と老人二人の落ち武者」の姿を想像しながら、この対談を読んでみてください」という「おわりに」のことばに明らかだ。まるで、絶望の中にしか、希望の種は見つからないと言っているかのようではないか。
「劣化する日本への処方箋」と題された最終章には、「社会の土台は倫理である」「イデオロギーより人間性」「会社が持っていた共同体機能の消失」といった、反・時代的とは言わないが、ことによると否・時代的とスルーされてしまいかねないトピックが続く。
そのなかから、「身体性を回復せよ」というセクションで披露された内田の呟くようなコメントを紹介する。――(武道や能をたしなむ者にとっては)自然と人工が拮抗する「汽水域」(淡水と海水が混在した地域)的な場所が道場であり、能舞台です。自然でありかつ人工であるわけですから、その比率がむずかしい。問題はその按分です。今の日本ではどうしても人工が過剰になる。……もう少し自然の比率を上げることが必要です。……問題は「さじ加減」なんですよ。だから「こうすればいい」という明確な処方箋は出せない――。すると白井も頷く――「こうあるべきだ」という設計主義的な処方箋はムリです――と。
これは、生身の人間にはマニュアル的な汎用性など、思うようには通用しないということだろう。育児、介護、教育、差し迫った問題の現場はみなそうだ。しかし、画一性に抗うこの「さじ加減」を、マニュアル思考が跋扈する社会システムの中で、果たして実現できるのか? 課題は極めて難しいのである。
さて、どうすればいいのか。「属国でもいい」という身も蓋もない言説がこれ以上露出する前に、本書のサブタイトルを引用すれば、「この支配からいつ卒業できるのか」という問題を、何とかして解かなければならない。
このフレーズは、反逆のシンガーだった尾崎豊の『卒業』を思い起こさせる。尾崎はあの曲を、「この支配からの卒業」に続けて「戦いからの卒業」と呟くように言って歌い終えていた。著者、そして本書の読者が、そう歌える日は来るのだろうか。来たとして、「属国」の抑圧が解けた世界を前にした我々には、いったい何が見えているのだろうか。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
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