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[書評]『ヨーロッパ・コーリング』

ブレイディみかこ 著

小木田順子 編集者・幻冬舎

悲観している暇があったら、ブレイディみかこを読もう  

 アメリカと中国の政治・経済は、日本のそれと繋がっていて、ひいては自分の生活にも関わってくるから、その動向にはそれなりに関心がある。でもイギリスにせよフランスにせよドイツにせよ、ヨーロッパは遠い。ヨーロッパをテーマにした本は、「売れない」と一蹴され、まず企画が通らない。だから、新聞の国際面を斜め読みするぐらいの関心しか持っていなかった。

 それが、「いったいこの国で何が起こっているんだ?」と気になり始めたのは、2014年のスコットランド独立を問う住民投票のときであり、関心がピークに達したのは、もちろん、EU離脱を問う国民投票のとき。そして本書を読み、「イギリスはこんなことになっていたのか!」と驚いた。

『ヨーロッパ・コーリング——地べたからのポリティカル・レポート』(ブレイディみかこ 著 岩波書店) 定価:本体1800円+税『ヨーロッパ・コーリング——地べたからのポリティカル・レポート』(ブレイディみかこ 著 岩波書店) 定価:本体1800円+税
 ブレイディみかこ氏は1965年生まれ。1996年からイギリス・イングランド南東部のリゾート都市ブライトンに住み、保育士をしながらライターをしている。

 ライターとしてのフィールドはイギリスのロック・ミュージックや政治など。2014年3月から寄稿している「Yahoo!ニュース個人」の記事は人気と評価が高く、知る人ぞ知る書き手だった。本書はその「Yahoo!ニュース個人」への寄稿を中心に編集された政治時評集である。

 「こんなことになっていたのか!」の「こんなこと」はたくさんあるのだが、まず驚いたのは、「ブロークン・ブリテン」とも言われるイギリスの現状だ。

 「リーマンショックから比較的早く立ち直り、イギリス経済って悪くないんでしょ」ぐらいに思っていたが、それは、サッチャーに始まり、その後も引き継がれてきた新自由主義的政策と財政緊縮策のおかげ。それにより、ロンドン市内の住宅は、ミドルクラスにも手が出ないほど高騰する一方で、2000年代後半から子どもの貧困率は上昇。生活保護の打ち切りによる餓死者も出て、イギリス社会を支えてきた労働者階級からもこぼれおちる「アンダークラス」が拡大しているのだという。

 日本では、EU離脱派が勝ったのは、EU域内からの移民によって仕事が奪われ、教育や医療などの環境が悪化している人たちが賛成票を投じたからと報じられた。でもそれは単純にEU移民が悪いという話ではなく、離脱賛成派が排外主義者なのでもない。離脱に賛成するということは、庶民の生活を崩壊させても経済ピラミッド上部の人々と外国人労働者によって国の経済を回すという、イギリス政府が選択した経済のありように対するノーでもあったのだ。

 ヨーロッパにおける新左派と呼ばれる勢力の台頭をめぐる話題も、やはり刺激的で驚きだった。

 たとえばスコットランド独立運動のリーダーたるSNP(スコットランド国民党)。名称こそ愛国的な極右政党のようだが、彼らが掲げる政策は、「反格差、反キャピタリズム、反保守党、反サッチャリズム、反戦、反核」。これは、排外主義的な「民族的ナショナリズム」ではなく、「市民的ナショナリズム」と言われる。SNPは住民投票で独立が否決された後も党員を増やし、彼らを支持する声は、スコットランドを越えて広がっているのだという。

 そして、ギリシャのチプラスが率いるシリザ。「ギリシャ危機」について、私は「アリとキリギリス」のキリギリス問題のように思っていたけれど、イギリスの多くのメディアは、「緊縮こそが欧州の災いの種」と報じ、ギリシャ危機を、「富国による貧国への緊縮の押し付け」というEUによる階級政治と捉えていた(チプラス政権はその後、EUからの支援と引き換えに緊縮財政を容認したことで支持率が急低下したが)。これは本書には書かれていないことだが、ここで火がついた「反緊縮」の動きが、EU離脱派に勝利をもたらした重要なキーになったと著者は言う。

 さらには、「左派は庶民に語りかけていない。庶民に届く言葉を発しなければ左派は勝てない」と言い続けて急成長したスペインのポデモス。66歳、「マルクス主義の爺さん」と呼ばれ、党内で「彼が党首になったら、二度と労働党が政権に返り咲くことはなくなる」とまで言われながら、若者や労働組合に支持され、圧倒的得票でイギリスの労働党党首に選ばれたジェレミー・コービン。

 これらの新左派は、しばしば「ポピュリズム」と批判される。日本で「ポピュリズム」は「衆愚政治」や「大衆迎合主義」と訳されるが、その本来の意味は、「エスタブリッシュメントによるエリーティズムに対するカウンター」であると著者は言う。新左派の当事者たちは、ポピュリズムと呼ばれることに誇りを持っている。

 そして著者はこう書く。

 「今、緊縮に未来を奪われた欧州の若者や労働者たちが彼らを支持し、熱狂している。欧州のエリートやテクノクラートたちは、この年季の入ったぶれないポピュリズムと、それを支持する下層の人々を抑えられるだろうか。もはやこれは『右と左』の構図ではない。欧州は『上と下』の時代だ」

 著者が本書で記しているような政治事情は、もちろん日本の新聞も報じている。ヨーロッパの著名な識者の論評も、日本の新聞で読むことができる。だけれど、著者の文章には、それらと大きく違う「手ざわり」がある。

 著者はジャーナリストではないので、政治家に独占インタビューをするわけでもないし、貧困の現場を取材しているわけでもない。通勤のバスの中で新聞を読み、日本に紹介したらおもしろいと思う話題をピックアップするのだという。

 そのような彼女の、労働者階級の一員としてコミュニティの真ん中で暮らしていることから生まれるリアリティ。左翼でありパンクであるという、ぶれない視点。拾う話題のセンスのよさと観察眼。パンチのある皮肉が効いた、切れのいい文章。そして彼女が訳して伝える、左派のニューリーダーたちの言葉のカッコよさ!

 そこから立ち上がる「地べたからのレポート」を読んでいると、イギリスの人々が感じている現状への怒りや不満、新左派への共感や期待や失望が、まるで自分のことのように感じられて興奮する。自分はこんなにも世界を知らなかったということと共に、自分はこんなにも世界につながっているのだということに、あらためて大きく驚くのだ。

 日本でも、奨学金の借金を抱え、非正規雇用の職にしか就けず、結婚も子どもを持つこともままならない若者が増えている。家庭での食事が十分でなく、夏休みや冬休みになって給食がなくなると、とたんに空腹に苦しむ子どもも少なくない。これは、著者が書いている「ブロークン・ブリテン」と呼ばれる状況と同じだ。

 そんな中で、社会の右傾化が進み、在特会のような排外主義勢力が少なからぬ市民の支持を得、他方、SEALDSや市民連合のような左派的な動きが出てきたという点も、「上と下の戦い」「グローバリズムへの異議申し立て」という世界的潮流の中で、起こるべくして起きていることなのだということが、本書を読んでいるとよくわかる。

 と同時に、日本の左派が掲げるのは相変わらず「9条」で、決して「富の分配」を第一には語らず、それゆえか市民の支持を得るに至らず、保守政党の長期安定政権が続いているという、日本の個別事情も、本書を読むとよく見えてくる。

 かつて「コラム」は「紙つぶて」と呼ばれ、コラムニストという存在は、社会でも一目おかれていた。だが、いまやコラムニストは絶滅危惧種と言ってもいいぐらいだ。「コラム」「時評」「ヨーロッパの政治」と、今の書籍業界における「売れないキーワード」が揃った本書が、「紙つぶて」たるパワーを持って世に出たこと、ブレイディみかこという書き手が登場したことは、本当に画期的なことだと思う。

 夏の選挙の敗北感から立ち直れない人たちには、悲観し絶望している暇があったらブレイディみかこを読め、と言いたい。さらには、「ヨーロッパはEUや移民やテロの問題で大変だけど、ま、日本は安倍政権で安定しているし、アメリカ・中国とうまくやっていけば何とかなるよね」と思っている人たちにも、日本の今を俯瞰し、よく知るためにこそ、ブレイディみかこを読もうと言いたい。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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