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[書評]『唐牛伝』

佐野眞一 著

木村剛久 著述家・翻訳家

伝説の闘士の生涯  

 プロローグに「心無い中傷で人生のどん底に突き落とされながら、愚痴一つ言わず生き抜いた唐牛の強靱な精神は、私をどれだけ勇気づけてくれたかわからない」とある。著者にとっては「復帰第一作」だという。

『唐牛伝——敗者の戦後漂流』(佐野眞一 著 小学館) 定価:本体1600円+税『唐牛伝——敗者の戦後漂流』(佐野眞一 著 小学館) 定価:本体1600円+税
 唐牛健太郎(1937-84)は60年安保の伝説の闘士だった。全学連委員長として、安保条約改定に反対し、国会突入をこころみたことで知られる。

 本書は唐牛の生涯を追った伝記である。さまざまな資料が駆使されるほか、関連人物の素描、かかわりのあった人へのインタビュー、ゆかりの場所への訪問もなされ、重層的にかれの人生の軌跡がえがかれる。

 とりわけ、その出生の秘密と、安保後の漂流が胸にしみる。世間からみれば、それは無念の人生だったかもしれない。だが、本人にとっては、そうではなかった。唐牛は哀愁に身をひたしながらも、それを笑いとばしながら、人生を走り抜けていったのだ。

 佐野眞一の取材は、唐牛のけっして長くはなかった生涯を、まるで「この人を見よ」というばかりに徹底してさらけだそうとしている。

 生まれたのは北海道の函館で、「庶子」(婚外子)だった。父親は8歳のとき亡くなり、母親が郵便局に勤め、ひとりで息子を育てた。ちいさいときから頭がよく、野球もうまかった。「性格がすごく明るい」というのは、だれもが認めている。憎めない男だった。

 1956年に北海道大学に入学するが、その夏、北大を休学し、上京、半年ほど東京に滞在し、アルバイトをしながら、はじめて砂川闘争に参加した。それが学生運動にのめり込むきっかけとなった。翌年、北大に復学すると、北大教養部の自治会委員長、さらに道学連委員長となる。

 全学連は、そのころ日共系と反日共系に分裂した。1958年12月に共産主義者同盟(ブント)が結成されると、唐牛はブントに加わる。長身で、石原裕次郎のようにかっこいい唐牛は注目の的だった。ブント書記長の島成郎は59年5月に札幌を訪れ、唐牛に全学連委員長就任を要請する。唐牛はこの要請に応じ、史上最年少の22歳で、全学連委員長に就任した。

 そして60年安保闘争がはじまる。60年1月16日、全学連は岸首相の訪米を阻止するため、羽田空港の2階ロビーを占拠した。4月26日のデモでは、警察の装甲車とトラックが国会前を埋め尽くしていた。唐牛は装甲車にのぼり、一世一代のアジ演説をぶつ。それが終わった瞬間、警官隊の渦のなかにダイビングした。そのあとを学生たちがつづく。予想もしなかった行動に、警官隊も動揺し、逃げだした。

 このときの事件で、唐牛は逮捕され、11月まで収監されている。そのため、6月15日に、警官隊とデモ隊が衝突し、樺美智子が死亡したときには、現場に居合わせなかった。

 6月19日に、安保条約は自然承認された。運動は急速にしぼみ、ブントは7月に事実上、解散する。それから唐牛の漂流がはじまるのだ。本書のメインテーマは、むしろ60年安保という祭りの後を、唐牛がどう生きたかにおかれている。

 1963年3月、TBSラジオが、60年安保を闘った全学連が右翼の親玉、田中清玄から闘争資金をもらい、その闘士の何人かが、いまも田中に庇護されていると伝えた。田中が全学連に闘争資金を渡したのは事実だった。唐牛も全学連をやめたあと、62年5月から田中が社長を兼ねる丸和産業という石油販売会社に勤めていた。

 放送が終わったあと、全学連には世間から非難の声が浴びせられた。唐牛は、これにたいし、ひと言も弁解しなかった。むしろ、すべての非難をだまって引き受けた。

 しかし、まもなく唐牛は田中のもとを離れる。全学連同志の篠原浩一郎に紹介され、単独太平洋ヨット横断で勇名を馳せた堀江謙一と組んで、「堀江マリン」というヨット会社を設立するのだ。65年2月のことである。その資金の一部は、田中の盟友で、山口組組長の田岡一雄が融通してくれた。だが、「堀江マリン」はすぐに立ちゆかなくなる。

 唐牛はそのほかにもさまざまな事業に手をだすが、どれもうまくいかなかった。小料理屋も開いた。まともな企業に就職できない唐牛は、生きることに必死だった。全学連を離れたあとも、公安の目は常に光っていた。「突き放した言い方をすれば、唐牛が輝いたのは60年安保闘争当時のわずか1年足らずのことで、後は呑んだくれの人生を送った、いや送らされた」と、著者は記す。

 最初の妻と別れ、再婚した唐牛は、それまでのすべてを断ち切るように、69年4月から四国巡礼の旅に出た。四国巡礼のあと、鹿児島から与論島に渡った。与論島には1年あまりしかいなかった。よど号ハイジャック事件がおこり、島にも公安関係者がやってくる。島をでたのは、島の人に迷惑をかけたくなかったからだという。

 それから北海道に渡り、70年7月から厚岸で漁師の見習いをし、さらに半年ほどたって、紋別に移り住んだ。唐牛は、ここで漁師をしながら10年足らず暮らすことになる。友人の西部邁は、最初の著書『ソシオ・エコノミクス』を「オホーツクの漁師」唐牛健太郎に捧げている。

 函館で母を看取ったあと、81年1月に、唐牛は函館から千葉県市川市に移り、エルムというオフコン販売会社の営業マンになった。そのころ、徳洲会の徳田虎雄と知り合う。

 唐牛に徳田を紹介したのは、全学連同志の島成郎だった。徳田は国会をめざしていた。82年4月、唐牛はエルムをやめ、徳田の選挙を手伝うことにした。その夏、喜界島にはいって、活動を開始した。だが、翌年の総選挙で徳田は惜敗する。そのころ唐牛は直腸がんがみつかり、すでに築地のがんセンターに入院していた。そして、手術後、一時退院するものの、がんが全身に転移して84年3月に亡くなるのだ。享年47。

 著者はこう書いている。

 「唐牛健太郎は、全学連仲間の島成郎や青木昌彦らがそれぞれの分野で目覚ましい業績をあげたのとは対照的に、『長』と名の付く職に就くことを拒み、無名の市井人として一生を終えた。/だが、それこそが唐牛が生涯をかけて貫いた無言の矜持ではなかったか。庶子として生まれた唐牛は、安保闘争が終わったとき、常民として生き、常民として死のうと覚悟した。それは彼の47年の軌跡にくっきりと刻まれている」

 60年安保闘争は「壮大なゼロ」と揶揄されたが、それはけっしてゼロではなかった。とはいえ、唐牛自身はひたすらゼロをめざしていたように思えてならない。ゼロは座標軸の交点である。唐牛は常に気になる存在だった。

 だが、ほんとうは、いっしょに闘った仲間たちこそ、唐牛に見つめられていたのかもしれない。君は元気でやってるか、闘いを忘れてはいないか、と。不思議なことに、本書はどこか励ましとやすらぎを与えてくれる。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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