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必見! 『ヨーロッパ一九五一年』(下)

<時間イメージ論>補足、バザンの批評再説など

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

『東京物語』など後期の小津安二郎から

 ドゥルーズの<時間イメージ>という概念は、『ヨーロッパ一九五一年』のような、ヒロインが中盤で決定的に――能動的に――生き方を変えてしまう映画ではなく、長谷正人が見事に論じているように、『東京物語』などの後期の小津安二郎の作品に典型的な、「人間のアクションが中心的な役割を果しえないまま<何かがいつの間にか過ぎ去っていく>ような時間感覚を観客に与える」映画の分析にこそ、有効ではないか。

「東京物語」。右は笠智衆さん 〓松竹『東京物語』 (c)松竹
 長谷は、『東京物語』を見る者は、「〔同じようなショットの反復とずれによって〕ある時間が経過していく間に東山千栄子〔笠智衆の妻・とみ〕の死という取り返しのつかない出来事が起きてしまったことを強く感じる」と述べ、「……『麦秋』でも『晩春』でも『秋刀魚の味』でも『秋日和』でも、『娘の縁談』を説話の中心においた後期の一群の小津作品は一様に、登場人物たちの意志的なアクションが届かないような『時間』経過の結果として、いつの間にか主人公の娘は成り行きで結婚するようになってしまうという説話論的な構造になっていた……」と書く。

 そして長谷は、そうした後期の作品によって小津は、「そもそも私たち人間が、自分がどれほど意志的アクションによって世界と関わろうとしても、世界の側はいつの間にか私たちの意志とは関係ない方向へと進展してしまっているという日常的な感覚を表現したかったの〔であり〕」、「つまり後期の小津は、『娘の縁談』という説話を借りて、『時間イメージ』を表現しようとしたと考えられる」と記す(長谷正人『映画というテクノロジー経験』(青弓社、2010、223頁―224頁)。

 長谷の文章は、ドゥルーズの提起した<時間イメージ>という概念を、後期の小津を例に挙げつつ(ドゥルーズの余計なレトリックや論理の不必要な迂回を排し)、明快かつ精細に噛み砕いていて、説得力がある(同書208頁以下では、蓮實重彦の『監督 小津安二郎』に対するユニークな批判も展開される)。

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