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[書評]『<ポストトゥルース>アメリカの誕生』

池田純一 著

東海亮樹 共同通信記者

ゲームは別の盤上で行われていた  

 米大統領選でドナルド・トランプが勝利した直後、英オックスフォード大学出版局は2016年に注目を集めた言葉として、「post-truth」を選んだ。

 オックスフォード英語辞典を見ると、「客観的な事実(fact)より、感情的で個人的な信念の方が、世論形成に影響を与える状況のことを指す」という意味とされ、「ポスト真実の時代には、つまみ食いしたデータ(cherry-pick data)で、自分が望むような結論を出すことは簡単だ」という例文が上げられている。

 身も蓋もなく言ってしまえば、「嘘が通れば道理が引っ込む」ということだが、長い大統領選期間の中でトランプが、移民問題や対外政策、経済問題で虚実ないまぜの発言を繰り返し、泡沫候補扱いだったのに、最後は世界の大強国の大統領に就任した。

 トランプ発言の「fake(嘘)」をいちいち挙げれば切りがないが、大統領就任式の参加者はがらがらだったのに「史上最大の人数」と報道官が言ってのけたことには、自分がパラレルワールドの別世界にいるのかと思った。今もトランプが会見でCNNの記者に対し、「お前の会社はfake newsだ。質問はさせない」と叫ぶのを見ると、世界は何かがひっくり返ってしまったのではないかという複雑な気持ちがずっと続いている。

 いったい何が起こり、これから何が起こっていくのだろうか? 本書はメディア研究者で事業家の著者が、米大統領選の予備選から本戦、トランプ当選に至るまでをリアルタイムに追いながら、特にインターネット、テレビ、新聞というメディアの動向を中心にして分析を行っている。

『<ポストトゥルース>アメリカの誕生——ウェブにハックされた大統領選』(池田純一 著 青土社) 定価:本体1800円+税『<ポストトゥルース>アメリカの誕生——ウェブにハックされた大統領選』(池田純一 著 青土社) 定価:本体1800円+税
 著者は、米大統領選は「ウェブの新しいアプリケーションの開発機会」だと当初は捉えていた。

 オバマが最初に当選した2008年はソーシャルネットワークがオバマを支え、2012年はスマートフォンの普及がネット選挙に参加する有権者を増やした。

 2016年の選挙はIT経済の現状から見て、先端技術を持つIT企業がビッグデータで有権者の心理を分析する、動員アプリのようなものが主流になるのではないかとみられていたという。予備選から、トランプを含め候補者たちはIT企業に委託し、当然資金力と優秀な技術者を抱えた候補が有利になるはずだった。

 ところが、ツイッターで暴言を連投し、共和党のエスタブリッシュメントを攻撃し、あらゆるヘイトスピーチを辞さないトランプが注目されていくなかで、メディア全体に予想もしなかった事態が生じた。ビッグデータの数理学的な分析などではなく、トランプは選挙戦を「リアリティショー」に変えてしまったのだ。

 リアリティショーとは、日本では「テラスハウス」という番組が有名だが、他人同士の普通の人たちを一つの家に同居させ、生活や心理的葛藤などを隅々まで露出させるといったような、いくらかの演出を含んだ「覗き物」だ。トランプもまさにリアリティショーの「アプレンティス」という番組での、「お前は首だ」の名セリフで人気者になったのだから、選挙戦でもリアリティショー的展開を予測できたかもしれないが、権威ある大統領選がそんな下品な場になるとは専門家も思わなかったらしい。

 著者が示す流れはこうだ。「特定の話題への本音トーク的ツイート→フォロワーによる拡散→バズ(口コミ)としても話題→テレビでの取り上げ→トランプというセレブリティの有名性の向上→有名性を増したトランプによるツイート(以下繰り返し)」というトランプにとっての好循環が延々と続いた。またネットにセルフィ(自画撮り)が氾濫するように、「自分自身をネタとして提供できる露出志向のナルシストが、ウェブ後の世界では、より有名性を獲得する」。トランプはまさにSNS時代の申し子なのだ。

 ボトムアップでネットが大騒ぎになればテレビも取り上げざるを得ず、トランプは自分でCMを作ることなく「フリーテレビ」を手に入れた。また、アメリカのほとんどの新聞はヒラリー・クリントンの支持を明確にしたが、新聞が無視をすればするほど、ネットの住民はトランプの話題にヒートアップしていった。

 つまりトランプはこれまでの大統領選の「ゲーム盤」をひっくり返したというより、まったく別のゲーム盤で別のルールで戦ったというのだ。

 著者の分析が鋭いのは、別のゲーム盤を作るという行動は、経済における「現代のマネジメント」と酷似しているという指摘だ。ネットの登場以来、経済人は世界の変化に飲み込まれるよりも自ら流れを生み出さなければいけないという強迫観念に襲われている。「個々のゲームではなく、ゲーム盤そのものの開発競争であり、いわゆるプラットフォーム構築競争もこの観点から正当化される」のだ。

 トランプは「ガバナンス」という従来のプロトコルを継承するが、トランプは政治をマネジメントにゲームチェンジしてしまった。その観点からすると、トランプの支持層は不満を持つプアホワイトだけではなく、「破壊と創造」に共感したホワイトカラー層も取り込んだようだ。

 一方、ヒラリーとサンダースが予想外のデッドヒートを繰り広げた民主党の予備選では、メディアコミュニケーションの観点からすると、サンダースはトランプに似たコミュニケーション戦略をとっていたのだという。

 サンダースの支持層はベビーブーマーの上のサイレント世代と若いミレニアル世代が多かった。ITに長けたミレニアル世代は、ネットで勝手連的にSNSやウェブを使ってサンダースを応援した。しかしリベラルなミレニアル世代は手法が洗練されすぎたようで、予備選ではヒラリーの伝統的戦術には一歩及ばず、もしトランプと対決したとしても、下品さと矛盾さの混沌が生む熱狂には太刀打ちできなかったろう。

 メリル・ストリープをはじめハリウッドのほとんどがヒラリーを熱烈に支持し、豊富な選挙資金を持ち、大手メディアや財界からの支援を受けながらも、ヒラリーはサンダースに苦戦し、トランプに敗退した(全得票数ではトランプに勝っていたとはいえ)。皮肉なのは、現在のIT社会の基盤となる政策を推し進めたのが、90年代のヒラリーの夫ビル・クリントン政権だったことだ。グローバル性で自由さを目指したであろうネット社会へのレールは曲がりくねってネジ曲がり、トランプ現象にたどり着いた。

 ツイッターの140字という短さは強力だ。嘘であろうが矛盾していようが、次から次へと別の話題に移っていくことで前言は撤回するまでもなく消えていく。ネット社会を批判しても意味はないし、ネットからの恩恵は計り知れない。しかし、「fact」と「fake」のどちらなのかが検証されることのない「post-truth」の時代を、本書は米大統領選の観察を通して輪郭を明らかにした。

 著者は、post-truthにせめて抗うために「物語」「語り口」「思索的」などのキーワードに思いをめぐらせることを提案するにとどめているが、的を射ていると思う。メディアが正しいことを正しいと言っても、ゲームはもはや「メディアのようなもの」という別の盤上で行われているとしたら、メディアは従来の枠組みを大きく変えなくてはいけない。あるいはより魅力的な別のゲーム盤を作らないといけないのかもしれない。「未知の前で怠惰を決めるのも人間ならば、未知を前にして俄然やる気を見せるのもまた人間である」と著者は言う。クールで示唆に富んだ一冊だ。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。

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 年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。