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[8]フランス社会とイスラムの諸問題について

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

マリーヌ・ルペンマリーヌ・ルペン氏 率いる「国民戦線」が主張する「反イスラム」の実態は……

 今回は『服従』の背景となる現実のフランス社会が抱える政治的、文化的な諸問題について、断章形式でコメントし、本連載の結びとしたい。

国民戦線の「ご都合主義」

*マリーヌ・ルペン率いる実在の国民戦線(FN)は、水島治郎らの指摘するように、とりあえずリベラル・デモクラシーを受け入れることで、反イスラムを主張するという論法をとる。つまり、リベラルの立場から、同性愛者の権利擁護、男女平等、政教分離(ライシテ/世俗主義)、表現の自由などを訴える。政教一致を原理とし、同性愛を禁じ、女性の権利を制限するイスラムの反リベラリズムを批判する、さらに親イスラエル(反・反ユダヤ主義)を掲げる、というロジックだ(水島治郎『ポピュリズムとは何か――民主主義の敵か、改革の希望か』、中公新書、2016、103頁以下、204頁以下)。

 だから当然、FNのスローガンは、西欧近代のリベラリズムを盾にとり、イスラム過激派対策と称して移民排斥を唱え、自国の経済活性化のために反EU、反グローバル化を訴える、というアクロバティック(曲芸的)なものだ。

 こうしたFNの“宗旨替え”――彼女の父ジャン・マリー・ルペン党首時代のFNは反ユダヤ主義、熱狂的愛国主義を前面に掲げた――は、まさにポピュリズム的な、一時の人気取りのための戦略的な方針転換である可能性が高いが、薬師院仁志によれば、そうしたFNやデンマーク人民党(やはり“リベラルな排外主義的”政党)の方針転換が、じつは目くらましのための“衣替え”にすぎず、そうしたポピュリズム勢力は本質的に極右のファシスト的差別主義者であることに変わりはなく、ただし<民衆煽動の手法を巧妙化した>だけなのだ、という(薬師院仁志『ポピュリズム――世界を覆い尽くす「魔物」の正体』、新潮新書、2017、191頁以下)。

 なお薬師院は、ポピュリズム勢力の無定見な<オポチュニズム(ご都合主義)>的戦略について、いみじくもこう述べる――「ポピュリズム勢力は、その時々に都合のよい理屈を持ち出し、人々の抱える「雑多な不満」の捌け口を見つけて攻撃することで、とにかく票を集めようとして来たのである。その際に敵視されたのは、相変わらず移民や外国人であった」(同前、200頁)。

 一方で谷口功一は、今の欧州での、<リベラルゆえの排外主義>という立場は必ずしも否定できないと述べる――「イスラムの女性蔑視や同性愛の否定は、リベラルな思想とは絶対に相いれない部分がある。欧州の価値観を守るために『イスラムは出て行け』というのは、ある意味で理にかなっているともいえる〔……〕」(朝日新聞、2017年4月7日付)。

 谷口の示唆する、ある意味で不可避な、多文化主義・文化相対主義の限界が引き起こす“文明の衝突”は、じつにデリケートで解決困難なアポリア/難問である(サウジアラビアなどのアラブ圏以外のイスラム教国、すなわちトルコ、イラン、インドネシア、パキスタンなどは、いちおう民主主義という形式や人権思想を取り入れてはいるが。またここでは詳述できないが、フランスの、多文化主義とは対照的な、移民同化政策――移民の言語・文化におけるフランス人化――も、移民の疎外感を増幅する大きな要因のひとつであるゆえ、成功しているとは到底言いがたい)。

シャルリー・エブドに欠けていたこと

*ムハンマドを露骨に愚弄するような風刺画――明らかにヘイトクライムだ――を掲載したシャルリー・エブド紙の“「表現の自由」信仰=自由原理主義/自由普遍主義”は、

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