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[3]SFの逆説的効用、画面造形の巧みさなど

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

黒沢清監督黒沢清監督

 今回は、これまでに触れられなかった『散歩する侵略者』の注目点を、断章形式でコメントしたい。

国家システムの恐るべき正体

*日本政府は、起こりつつある異変は、宇宙人による侵略ではなく新種のウィルスの感染である、というフェイク・ニュースを流すが、そうした設定によってこそ本作は、虚実ないまぜの情報が錯綜する今日的な政治状況を、ベタなメッセージとしてではなく、いわばSF的寓意に変形することで、かえって空恐ろしくリアルに描くことに成功している。

 つまりそこでも、いわゆる社会派的リアリズムより空想科学的な設定のほうが、社会的現実の実態もしくは深層を活写しうるという、ある種逆説的な、SFならではの表現効果が鋭く発揮されるわけだ。

 もっといえば、SFは、現代人の抱く不安・疎外感・孤独感、ないしは閉塞感(何らかの外的な脅威が迫っているとか、共同体から切り離されて居場所や行き場を失っている、という寄る辺なさなど)のモチーフを、いわば<拡張的に>描き出す可能性を秘めているのだ(文学作品における、こうしたSF効果の一例については、本欄のミシェル・ウェルベック『服従』論〔「[7]ウエルベック作品のSF的性格について」2017/08/02〕を参照されたい)。

 なお、桜井に近づいてくる厚生労働省の役人・品川(笹野高史)のゲスな感じもひどくリアルだが、××ですよ~と語尾を変に伸ばすセリフ回しも、なんともグロテスクだ(こういうやつ、役人とかにいそうだよなと思わされるが、品川が「邪魔者」という「概念」を天野に奪われ、くず折れたのち、人間みんな友達だよねーと言うところもおかしい)。

 また、中盤あたりから重装備の自衛隊が徐々に街中に目立って増えてくる――潜在的にはつねに戦争状態にある国家の正体があらわになる――様相にもゾッとするが、したがって『散歩する~』で浮かび上がるのは、人間/人類、ないしは彼らが形成する国家というシステムの恐るべき正体――「ヒューマニズム」とは真逆の――でもある。なお、前記『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』で人間に乗り移った侵略者/異星生物らの一人は、主人公のケビン・マッカーシーに、「永遠の愛などない。愛、欲望、野心、信念などはないほうがシンプルに生きられる〔つまり煩悩を捨てよと〕」と、仏教的無常観めいたセリフを言って、彼らのファシズム的教義を主人公に吹き込もうとする。『散歩する~』とは異なり、人間が心に抱く「概念」など学習しようともせず、紡錘形をした植物のサヤの中にブクブク泡立つ複製人間を製造していく姿なきエイリアンも、それはそれでひたすら怖い。

シネスコ画面の活用

*『岸辺の旅』(2014)、『クリーピー 偽りの隣人』(2016)、『ダゲレオタイプの女』(同)に続いて、『散歩する~』は4本目の全編シネスコサイズで撮られた黒沢作品だが、私見では本作は4作中、『クリーピー』とともにシネスコ画面をもっとも有効に活用しえたフィルムである(シネスコ=シネマスコープ/横長の画面サイズで、縦横比1:2.35、ちなみにスタンダードサイズは同1:1.33、ビスタサイズは同1:1.85で現在のテレビのサイズ)。

 そのことは、たとえば横長のシネスコ空間の両端に、鳴海と真治を配する画面構成にも顕著だ――雑草が生い茂った草むらに埋まるような恰好で倒れていた真治が右端でむっくりと起き上がって、左端に立つ鳴海がぎょっとする俯瞰ぎみのシーンの素晴らしさ! 

 また驚くべきことに、左右に余白の空間が映ってしまうゆえ、もとより役者の顔のアップの交互の切り返しはシネスコ向きではないはずだが、テーブルを挟んで向き合う長澤と松田の正面からの顔のアップの切り返し――ふたりの目はレンズの中心からやや逸れたところを見る――を、黒沢=芦澤コンビは涼しい顔でやってしまう!(それはまるで、シネスコで撮られた小津安二郎映画の一場面のようだ〔小津作品はすべてスタンダードサイズ〕) そういえば、北野武は『アウトレイジ』(2010)以降の4本をシネスコで撮っているが、黒沢清と北野武は、1980年代に映画を撮り始め、90年代にその作家的才能を開花させ現在に至っている点で、またその映画が海外でも高く評価されている点で共通している。

見事な画面づくりの数々!

*本作の画面づくりの見事さについて、さらに触れてみたい。

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