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[書評]『わたしの名前は「本」』

ジョン・アガード 著 金原瑞人 訳

渡部朝香 出版社社員

吾輩は本である? 本自身が語る波乱の生涯  

 わたしが出版社に就職したのが1996年。その年をピークに、書籍の売りあげは下降の一途をたどっている。本が飛ぶように売れていたという時代を、わたしは知らない。

 通勤電車の車内アナウンスで使われる言葉が「携帯電話」から「スマートフォン」に変わった2012年、スマートフォンの世帯普及率が約50%になった。下降が加速したと感じた。とっくにわかっていたことではあるが、従来のモデルは、どんづまりだ。

 本の製造の末端にいる者として、なにができるのだろう。ずっと、ひりひりしている。出版とは?本とは?という問いが、いつも頭のなかをめぐっている。

 書店の現場をよく知る営業の同僚から、『わたしの名前は「本」』という新刊を教えてもらった。信頼する書店員さんが力を入れて店頭で展開しているという。原タイトルは“BOOK;My Autobiography”、つまり、「本:わが伝記」。「本」が自身の生涯(本の歴史)を一人称で語るというもの。本とは?を考える身としては、読むしかない。

『わたしの名前は「本」』(ジョン・アガード 著 金原瑞人 訳 フィルムアート社) 定価:本体1600円+税『わたしの名前は「本」』(ジョン・アガード 著 金原瑞人 訳 フィルムアート社) 定価:本体1600円+税
 140頁強の瀟洒なつくり。2色の挿絵が美しく、絵本のよう。お勉強気分で読みはじめたが、気持ちよく裏切られた。やわらかな語り口だが(金原瑞人さんの手練の翻訳!)、かなり骨太で、批評的。だけど、声を出して笑ってしまう箇所がいっぱい。知性とユーモアあふれる「わたし」=「本」氏の人柄に、すっかり魅了されてしまった。

 「本」氏は、自らの歴史を、「本の前に、息があった」と、文字の前史から語りはじめる。息。素敵だ。やがて、文字が生まれ、粘土板に刻まれ、パピルス、羊皮紙、背表紙ができ、紙ができ、グーテンベルクの活版印刷へ。

 こう書くと、たいていの人には既知のことだろうが、「本」氏の話は、そうした大きな流れをたどるにとどまらない。文字の誕生に際しては表記の方向が定まっていなかったことや、中世の写本で用いられたインクは木のこぶから複雑な工程で作られたことなど、文字という像やそれらを定着させるモノが思考錯誤のうえで変化していったことがわかる、細かなエピソードが紹介されている。

 「本」氏、偉そうなのもいい。「正直にいうと、わたしは羊皮紙やヴェラムはかっこよくて気に入っている。見栄っ張りなやつだといわれそうだが、当時、わたしは信じられないほど大切にされていたのだ」「気づいていないかもしれないのでいっておくと、わたしは〔Paper、Printing Press等々の頭文字である〕Pの字が大好きだ」「啓蒙運動の啓蒙を行なったのはわたしなのだ。わかってもらえるだろうか」

 この偉そうでいておかしい一人称の文体は、見覚えがある。『吾輩は猫である』の、あの感じだ。「本」氏の語り口によって、本の権威性が楽しく浮かびあがる。だって、実際、本こそが、人類にとって権威の源泉でありつづけてきたのだから。

 誇り高き「本」氏が生き生きと伝えてくれる人生は、なかなかに波乱万丈だ。そして、本の果たしてきた役割を教えてくれる。「魂のための薬箱」である図書館。血塗られた焚書の事実。ペーパーバックにより携帯が簡便になったことでの読書体験の変化。最後にはもちろん、電子書籍も登場する。

 この本に限らないが、本への愛を綴った本は、けなげで、愛おしい。音楽への愛を歌った音楽もそうだ。けなげには、弱い者の懸命なさまというだけでなく、勇ましさ、強さ、殊勝という意味もある。それぞれの意味で、けなげだと感じる。

 と同時に思う。音楽そのもの、本そのものを直接にテーマとしなくとも、すべてのすぐれた音楽、すぐれた本は、これまでの音楽、これまでの本の、豊かな実りを糧にして生みだされ、音楽とは何か、本とは何かという問いへの、その時点での最善、最新の応答として表現されているのではないかと。受け取り手に、これこそが音楽だと、本だと、感じさせるものではないかと。

 本への愛に満ちたチャーミングなこの本は、本が本でありつづけることに緊張を覚えるいまの時代だからこそ生まれたものに違いない。最後に「本」氏が列記する謝辞が、胸に迫った。どれほど膨大な人たちの言葉と手によって、本は本として成されてきたのだろう。それも、多くは無名の。そこには当然、読者も含まれる。本の「わたし」と読む「わたし」の密やかな関係は、世界のいたるところで日々生まれている。

 文字と書物の何千年にもわたる歴史のなかでも、おそらくもっとも激動の時代に生まれあわせ、本の仕事に携われることを、幸いと思いたい。この本を応援している、お会いしたことのない書店員さんも、ぼやき節が絶えない、この本を紹介してくれた同僚も、日々厳しい現実に直面しながらも、たぶんあきらめてはいない。ときに歴史に立ちかえりながら、本そのもののありようを問い、新しいことに挑みつづけることで、きっと本のこれからが創られていく。そう信じよう。

 「本」氏=「わたし」は親友の電子書籍にこういってやることにしているという。

 「いまのところ、まだまだ引退するつもりはない、とね」

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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*三省堂書店×WEBRONZA  「神保町の匠」とは?
年間8万点近く出る新刊のうち何を読めばいいのか。日々、本の街・神保町に出没し、会えば侃侃諤諤、飲めば喧々囂々。実際に本をつくり、書き、読んできた「匠」たちが、本文のみならず、装幀、まえがき、あとがきから、図版の入れ方、小見出しのつけ方までをチェック。面白い本、タメになる本、感動させる本、考えさせる本を毎週2冊紹介します。目利きがイチオシで推薦し、料理する、鮮度抜群の読書案内。