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[書評]『グッバイ、レニングラード』

小林文乃 著

駒井 稔 編集者

この本の本当の主役は「理想」である

 むかし、むかし、この地球上に「ソヴィエト社会主義共和国連邦」という国がありました。レーニンとトロツキーというえらい革命家のおかげでみんなが平等に暮らせる国ができました。けれどもスターリンという悪人が現れて……。

 ソ連という国は多くの人にとって、すでにお伽噺になりつつあるのではないだろうか。本書を読み終えるまではそう思っていた。ロシア革命は20世紀最大ともいえる出来事である。しかしながら日本ではロシア革命について語られる機会はあまりに少ない。ゴルバチョフが何を試みたのかを知ろうとする人もほとんどいない。

『グッバイ、レニングラード――ソ連邦崩壊から25年後の再訪』(小林文乃 著 文藝春秋)
定価:本体1700円+税『グッバイ、レニングラード――ソ連邦崩壊から25年後の再訪』(小林文乃 著 文藝春秋) 定価:本体1700円+税
 著者は1991年の夏、「8月クーデター」(この事件も覚えている人はまれである)の直前にTBSテレビの特別番組に応募。「こども特派員」として旧ソ連のモスクワで2週間を過ごした。そのとき10歳。なんとコルホーズ(集団農場)にも滞在している。しかもきちんとその時の記録を残し、その後も自分の体験を反芻し続けたのは驚くべきことである。

 本書は著者自身が2017年にBSフジドキュメンタリー『レニングラード 女神が奏でた交響曲』という番組の企画・プロデュース、リポーターとしてサンクトペテルブルグ(旧レニングラード)を訪れた時の記録である。作曲家ショスタコーヴィチの『交響曲第七番』、またの名を『レニングラード』と呼ばれる曲が生まれ、初演されるまでの軌跡をレポートするのが目的だった。同時に彼女自身が長年抱いてきた、ソヴィエト連邦とはなんだったのかという問いの答えを探す旅でもあった。

 1941年6月22日、ドイツによる奇襲攻撃、通称「バルバロッサ作戦」が実行に移され、9月4日にはレニングラード市内への砲撃が開始された。やがて900日にも及ぶ封鎖が始まる。ヒトラーは攻撃することなく飢えによってレニングラードを壊滅させようとした。封鎖により100万人ものレニングラード市民が餓死・凍死したが、それでも市内の劇場では芝居やコンサートが上演され続けていた。支給されるわずかなパンを芝居の切符に替える人すらいたという。

 9月17日、迫りくる危機のなかでショスタコーヴィチはラジオの生放送に出演し『交響曲第七番』の第2楽章を書き終えたことをレニングラード市民に告げる。そして言った。「レニングラードは、私の祖国です」。ショスタコーヴィチ自身は命令によってその地を離れるが、完成した交響曲は翌年の夏、市民の不屈の魂のシンボルとして、指揮者たちの英雄的な努力の末についにレニングラードで演奏される。この物語を克明に描いていく著者の筆致は的確で極めて冷静である。この初演を生で聴いた96歳の女性へのインタヴューを含め、様々な人々に取材を重ねながらこの奇跡のような出来事を自らの体験を含めて丁寧に描いていく。

 この本の通奏低音となっているのは著者の父と母の存在である。貧しい家に生まれた父と裕福な地主の家庭に育った母親は、学生運動を通じて知り合い結婚。著者である娘は貧しい生活のなかでもブルジョア的に育てられ、母にバレエとピアノを習わせられる。

 学生運動を経験した世代に特有のソ連への特別な感情が著者に深い影響を与えていることは間違いないだろう。町内会の防火訓練でヘルメットをかぶると血が騒ぐなどという父親は、ソ連とは全部が夢だったのだといい、母は人間の怠惰を計算に入れなかったから革命は失敗したのだという。団塊の世代からよく聞いた話ではあるが、娘のなかでソ連という理想は別の形で静かに成長し続けていたのだ。

 1980年生まれの著者が描く、ソ連の歴史には不思議な深みがある。何冊かの歴史書を紐解いて勉強して書かれただけの凡百の本にはない静かな熱があるのである。未来を感じさせるに充分な力がこもっている。

 「よく考えるとそんなにいい目にも遭っていないのだが、やはり私はロシアという国が好きだ。なぜかと問われても明確な答えが出てこない。このどうしようもなく魅かれる想いは、まるで苦しい恋をしているかのようだ」

 冷静にロシア革命を考えることができる若い世代が生まれつつあるのかもしれない。この本の本当の主役は「理想」である。そう、ロシア人が決して忘れないもの、それが理想であることを著者はよく知っている。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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