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必見!『女と男の観覧車』 ヒロインの危うい魅力

不倫、恋、嫉妬、放火癖……目を見張るような<起承転転>

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

『女と男の観覧車』『女と男の観覧車』の公式サイトより

 50年以上もアイデアを枯渇させることなく、傑作、佳作、失敗作をコンスタントに撮りつづけてきたウディ・アレン。そんな彼が82歳で撮った『女と男の観覧車』は、怪傑作という言葉がぴったりの、狂気じみた恋愛悲喜劇だ(長編49作目)。

 とりわけ、主演女優ケイト・ウィンスレットの過剰な演技が、それ以上やりすぎれば映画が破綻する、というギリギリのところで危うい魅力を放つ。なにせ、美人だが二の腕や腰回りに贅肉のついた、貫禄たっぷりの42歳のウィンスレット扮する人妻が、若者との不倫に突っ走り、喜怒哀楽をこれでもかとスクリーンにぶちまけ、鎮静剤やアルコールに依存した挙句、ついには正気を失いかける、といった一連がドラマの核となるのだ。

 まあ、男女を問わず、情緒不安定で神経症の「現代的」人物というのは、ウディ・アレンおなじみのキャラクターであり、不倫や三角関係のもつれによる鎮静剤やアルコールへの依存なども、すぐれてアレン的なトピックではある。とはいえ、本作のヒロインの示す情動の激しさ、ヒステリックな混乱ぶりは、『ブルージャスミン』(2013)で心を病んで壊れていく上流のセレブ女性(ケイト・ブランシェット)のそれよりさらに破壊的で、アレン映画の神経症的人物のなかでも破格ではないか(映画批評家のジェイソン・ベイリーは、そうしたアレンの描く不安の塊のような多情で破滅型の女性を、いみじくも「カミカゼ・ウーマン」と呼んだ。<『ウディ・アレン 完全ヴィジュアルガイド』、都築はじめ/日本版監修、草野裕子/訳、2017、スペースネットワーク>)。

<ボヴァリズム>に取り憑かれたヒロイン

 ではなぜ、時に重苦しく、時に狂騒的なケイト・ウィンスレットの演技は、感情の押し売りになる寸前で、危うい魅力に昇華されているのか。その理由として、作劇上・演出上のいくつかのポイントがあげられる。順に見ていこう(ただしこれらのポイントは、映画のなかでは混然一体となっている)。まず言えるのは、物語の起承転結(というか起承転転)が、じつに巧みであることだ(脚本は毎回のようにアレン自身によるが、脚本家としての彼の才能には驚くべきものがある)。

 ――舞台は、最盛期の活気を失った1950年代のコニーアイランド(ニューヨーク・ブルックリン南端のリゾート地で、ブルックリン育ちのアレンにとっては特別な意味を持つ場所であり、『アニー・ホール』<傑作、1977>を皮切りに彼の映画にたびたび登場する)。元女優のジニー/ケイト・ウィンスレットは、遊園地のレストランでウェイトレスとして働いている。ジニーは、メリー・ゴーラウンド/回転木馬の管理人の夫、ハンプティ(ジム・ベルーシ)とは再婚同士だったが、前夫との間の息子リッチー(ジャック・ゴア)と3人で、観覧車“Wonder Wheel(ワンダーホイール:原題)”の見える家で暮らしている。

 だがジニーは、夫との生活の平穏さ、単調さに倦(う)んでいた。ジニーにとって、それは心に穴があいたような空虚感であったが、彼女は要するに、ひとつの恋を成就させても、決してそれに満たされることなく、つねに<ここにはない>、身を焦がすような「理想の」恋を追い求める、あの<ボヴァリズム>に取り憑かれているのだ(<ボヴァリズム>とは、フランスの作家フロベールの小説『ボヴァリー夫人』<1857>の主人公のように、つねに現状に満たされることなく、自らの幻影や夢想を投影させた「新しい相手」との恋を求める性向のことだが、実行するか否かはさておき、こうした性向とまったく無縁な人間は少ないのではないか)。

 ジニーの<ボヴァリズム>は、彼女の再婚にいたるまでの経緯からも明らかだが、かつて駆け出しの女優だった彼女は、ドラマーの夫を裏切って共演者と関係を持ち、それを知った夫は自殺、そのショックで彼女は女優業を続けられなくなり、ハンプティに慰めを求めたのだった……。

 さて、そんなある日ジニーは、海岸で監視員のアルバイトをしている劇作家志望の青年ミッキー(ジャスティン・ティンバーレイク)と知り合い、不倫の恋に落ちる。ジニーは、ミッキーの若い肉体に溺れつつ、彼が近い将来書くだろう脚本によって、女優としての復活を夢見るようになる。「自己実現」への過大な夢想を含んだ、典型的な<ボヴァリズム>という症候である。

 そして、一人の若い女がジニーの前に現れたことで、すべてが狂い始める。

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