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北海道大地震、停電下で食料探しに奔走して

大型店・大スーパーは社会的責任を十分に果たしたか

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

避難所となった総合福祉センターの前で、夕食の炊き出しを受け取るため列を作って待つ被災者たち=2018年9月12日午後6時40分、北海道厚真町北海道厚真町では、避難所となった総合福祉センターの前に、炊き出しを受け取る被災者の行列ができた=2018年9月12日

 北海道の大地震で、少なくない人が命を落とし、けがをし、あるいは住宅を失う等の大変な被害を受けた事実に、心からお悔やみとお見舞いを申し上げたい。その上で、大停電下で右往左往した当事者として体験したこと、考えたことを、若干記したい。

電気に頼る生活の危うさ

 今回、震源地は震度7に達したが、そこから直線距離で東に100キロ以上離れた道東に住む私の場合、揺れによる被害は幸いほとんどなかった。だが、地震の直後から停電となったため、致命的な状況に突如なげこまれた。電気に頼る現代の生活がこんなに危ういとは、考えてもみなかった。

 私は14階建てマンションに住んでいるが、上水道はすぐに使えなくなった。マンション内に水を供給するポンプは、電源なしには動かないからだ。

 オール電化のため、熱源も失われた。だから、残っていた乾ソバも乾ウドンもないに等しかった。冷蔵・冷凍庫は、電源が切れて内部の温度が上がり、生ものに影響が出始めた。

 もちろんエレベーターも動かない。私の部屋は7階なのでなんとか昇り降りしたが、昇りはつらかった。私より上階に住んでいる高齢者は、とても階段を上がり切れなかっただろう。

 情報からも遮断された。パソコンには充電池が若干残っていたが、モデムの電源が切れたためネットにつながらない。スマホはそもそも持っていない。家電(いえでん)は「光電話」のため、受話器は電源喪失とともにただの飾り物になった。結局私にとって、唯一の情報源は昔ながらの携帯ラジオだった。

食料入手は大変だった

 地震発生は午前3時すぎである。直後に室内の被害状況を確認しようとしたが、一切明かりはつかなかった。その後朝8時前に起きたが、停電は予想に反して解消していなかった。携帯ラジオを聞きつつ、北海道全域での停電という未曽有の事態を知って驚愕し、すぐ買い出しが必要だと判断した。近くのコンビニとドラッグストアで食料を手に入れようとしたが(店内はすでに客でごった返していた)、熱源が失われたのでカップ麺などは買う意味がなく、コンビニでは弁当1個、柿の種2袋、ソーセージ2本を、ドラッグストアでは袋入りせんべい2袋、野菜ジュース1本と単1電池2個を手に入れた。ついでに、真っ暗闇の夜をすごすために日本酒を少々。

 しかし、クレジットカード依存者の常として、現金の手持ちがほとんどない。ひとまず残金のあるプリペイドカードで上の最低の買い物ができたが、これではとうてい足りない。とはいえ停電のためクレジットカード自体が使えず、ATMも動かなかった。ただし自家電源をもった役所内のATMは作動した。おかげで現金を引き出すことができたが、そうでなかったら、店の前で立ちすくむしかなかったろう。

 店側も苦労した様子だった。上記2店とも自家電源のおかげかレジ機だけは動いたが、現金入手後に行った小スーパーでは小一時間待たされた。入り口で職員が入出店者数を管理し、すべて電卓で計算していたせいである。しかしレジ機=バーコード読み取り機が使えないため、店員も商品の値段が分からない。店長が値段を確認しに暗い店内を走っては大声でいくらと叫び、1カ所しかないレジの担当者は、復唱しつつそれを必死で電卓に打ちこむ。もちろん、打ちこまれた価格が正確かどうかは誰もわからない。レシートはなく棚にも戻れず確認しようもない。しかしそんなことにこだわっている場ではない。

 ここでは食パン2袋と、果物の缶詰3個が買えた。

大型店は十分な役割をはたせなかった

 停電後、地域に大きな影響力をもつ大型店は、どのように対応しただろうか。近くの大型店・大スーパーは、真っ暗な状態で万引きが起こる可能性を考慮したのか、信号がすべて消えたために従業員が通勤できなかったのか、あるいは暗い店内での人身の安全を確保できないと考えたのか、早々と「停電のため閉店」と書いた紙を張り出した。

 それにしても、食料をふくめて必要な物資(私の場合は熱源として携帯ガスコンロもほしかった)が手に入らない。だからその日の夜は、商品として売られているパック入りご飯に、水を注いで食べたが、私にかぎらず、各種の商品を必要としていた人は多かったに違いない。この大型店・大スーパーに対して

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