メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

歌舞伎を通じて芸を磨いた杵屋勝国さん

第48回JXTG音楽賞で邦楽部門賞を受賞。芸の心と技はどのように育まれたのか

丸山あかね ライター

杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内

 2018年10月中旬、東京・東銀座の歌舞伎座で「芸術祭十月大歌舞伎 十八世中村勘三郎七回追善」昼の部の幕が開いた。披露されたのは「三人吉三巴白浪」「大江山酒呑童子」「佐倉義民伝」といずれも勘三郎にゆかりのある三つの演目。父を彷彿(ほうふつ)とさせる勘九郎の晴れ姿、女形を演じる七之助の艶やかさ、そして長唄衆の奏でる演奏の素晴らしさに観客の誰もが魅了されていた。

 長唄は3百年以上前に歌舞伎の伴奏として成立した三味線音楽であり、ひな壇に並び舞台を盛り上げる「出囃子」、芝居の情景や登場人物の心情を伝える「影囃子」を担当する。壮大さと繊細さを併せ持つ古典芸はまさに日本の誇り。立三味線(三味線の首席奏者)を務める杵屋勝国(きねや・かつくに)さんはこのたび、その磨き抜かれた名人芸と長年に渡り長唄界を牽引してきた功績が高く評価され、第48回JXTG音楽賞の邦楽部門賞を授与した。

 三味線とともに歩んできた人生、そのなかで出会った忘れられない人たちについて、語っていただいた。

6歳の6月6日に初の手ほどき

――受賞、おめでとうございます!

杵屋 ありがとうございます。JXTG賞というのは昔はモービル賞と言ってね、ああいう賞を貰えるようになれたらいいなと憧れていたものです。それだけに非常に光栄です。大した貢献はしていないのですが、歌舞伎界では40年くらい演奏していますので、きっと一つのことに打ち込んできたことを褒めていただけたのでしょう。三味線という無我夢中になれることに出会えた喜び、そして善き方々とのご縁に恵まれた幸せを感じています。

杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内
――長唄三味線を始められたのは6歳の時とお聞きしました。

杵屋 今では邦楽の世界でも3歳くらいから芸事を始めますが、昔は6歳の6月6日から始めると物になると言われていたんですね。それを両親が忠実に守りまして、家の隣に住んでおられた先生のところで手ほどきを受けるようになったのです。時期を同じくしてバイオリンも習い始めたのですが、こちらのほうは先生のお宅がちょっと遠かった。バイオリンもいいなと思ったけれど、やはり近いほうが楽でしょう? そんなことで三味線のほうが長続きしたんですね。

――ご両親も芸事がお好きだったんですね。

杵屋 実家は福岡県の柳川市で料理屋や映画館を営んでいました。父が長唄を歌い、母が三味線を演奏するといった環境でしたが、兄弟の中で芸事好きな血を引いたのは私だけ。今にして思えば祖母はこのことを見抜いていたんですよ。大のつくほど芸事が好きだった父方の祖母は、旅回りの芝居が柳川に来るたびに足を運んでいましたが、一人で行くのは嫌だからと、決まって私だけ連れて行ってくれました。3歳くらいの頃は退屈しながら観ていたけれど、だんだん好きになって、その延長線上に今がある。そういう気がします。

14歳で「名取」に

――もともと才能があった?

杵屋 才能があったのかどうかは自分ではわかりませんが、幼い頃からお稽古は好きでした。小さな子供が大人用の三味線を抱えてやるんですから、ちょっと音が出たというくらいのことでも、周囲の大人が「上手、上手」と褒めてくれる。私はそれが嬉しくて、もっと上手くなりたいと思っていたのです。

 なにより師匠に恵まれました。隣に住んでおられた女の先生も優しかったし、小学校三年生の時から指導を受けた杵屋寿太郎先生も可愛がってくださいました。私は30人くらいいたお弟子さんの中で最年少だったせいか、注意点を指摘されるにしてもやんわりとした口調で、叱られたという記憶がないのです。厳しい先生だったら嫌になって放り出していたかもしれませんね(笑)。

――それでも、練習を続けるのは大変ではないですか。

杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内
杵屋 柳川の自宅から福岡市内の寿太郎先生のお宅まで電車とバスを乗り継いで1時間半くらいかけて、週に2回ほど通っていました。でも一対一で向き合って稽古をつけていただくのは30分程度。前の人が習い終えるのを待つ時間のほうがずっと長かったのですが、その時間が勉強になりました。

 隣の部屋でじーっと正座して待っていると、指導の様子が伝わってくる。時には激しく叱られている声が聞こえてくることもありました。自分がアドバイスを受ける立場だとポカンとしてしまいがちですが、隣の部屋で人の演奏を冷静に聴いていると、先生のおっしゃることがよくわかるのです。

――14歳で「名取」になられています。

杵屋 早く弾くといった難しいテクニックも、繰り返し練習しているうちに、ある時スッとできるようになる。これが楽しくてどんどん三味線にのめり込んでいきました。自分でいうのもおかしなものですが、練習が嫌だな、辛いなと思ったことがないというのも、一つの才能といえるのではないでしょうか。

 本来、家元から芸名をいただけるのは15歳からなのです。まだ早いといった声もあったようですが、杵勝会には名取になるための実施試験がありまして、寿太郎先生が「試験を通過したのだから問題はないだろう」と言ってくださった。つまり特例で杵屋勝国という名前をいただくことができたのです。 

八代目松本幸四郎の『勧進帳』に感動

――プロの道に進みたいと考えたのは、その頃からですか?

杵屋 中学時代から意識していたように思います。当時、東京から家元(七代目杵屋勝三郎)が博多へみえた折にお稽古をつけていただいていたのですが、プロになるためには上京して、本格的に勝三郎先生の指導を受ける必要がありました。親元を離れなければいけないでしょう? それで踏ん切りがつかなくてね。結局のところ、寿太郎先生が「この子はプロになったほうがいい」と言って手際よく道をつけ、私の背中を半ば強引に押してくださったのです。

 高校2年の時に東京の玉川学園高等部に転校し、一人暮らしを始めました。最初は寂しくて仕方がなかった。でも刺激的なことがたくさんあったので、やっぱり上京してよかったと思うようになりました。

杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内

――刺激的なこととは何でしょうか?

杵屋 玉川学園の歌舞伎研究会に所属して、毎月、歌舞伎を鑑賞するようになったのですが、八代目松本幸四郎(初代・松本白鸚)の『勧進帳』を観た日のことが忘れられません。この世にこれほどまでに素晴らしいものがあるのかと思いました。

 頼朝に追われる義経と弁慶が難所を切り抜ける場面では、三味線が観客の臨場感を大いに煽(あお)ります。歌舞伎の三味線はこういうダイナミックな演奏もやるのかと驚いてね。当時、私は既に数十曲ほど弾けるようになっていて、「勧進帳」も習得していましたが、登場人物の心情に見事に寄り添う演奏を聴き、長唄三味線の役割について深く理解することができたのです。

テクニックは練習次第、センスは才能

三味線を弾く杵屋勝国さん三味線を弾く杵屋勝国さん
――その一方で、三味線のお稽古にもしっかりと取り組んでおられたのですね。

杵屋 東京で本格的に指導を受けるようになった勝三郎先生からは、「基本に忠実に、心を込めて弾きなさい」と教わりました。そしてたくさんの刺激を与えていただきました。慶応ボーイだった家元は都会的で、とにかくカッコよかった。お話もお上手で、ご自身が見聞きした名人のことや歌舞伎界のしきたりなどを面白おかしく語ってくださり、私は身を乗り出して聴き入っていたものです。

 やがて進学した東京芸術大学の音楽部邦楽科には、人間国宝である山田抄太郎先生がいて、個人レッスンを受けるという幸運に恵まれました。初めてお手本を見せていただいた時、なんと匠な演奏なのだろう、と衝撃を受けたことを覚えています。この人は普通じゃないなという新鮮な驚きがあって、思えばあれが三味線の世界で精進していこうと固く決意した瞬間でした。

――人間国宝の山田先生から個人レッスンを受けらるとはすごいですね。

杵屋 山田先生は当時70代で、少々お身体が弱っておられましたが、さりげなく奏でる音が力強くピンと張りつめていて、艶(つや)があるのです。大きな音を出そうと力任せに弾いていた私に「あなたね、ちょっと力を抜かなくちゃ。もっと軽く、腕の力ではなく肩で弾きなさい」と教えてくださった。今でも私が大切にしている言葉です。

 でも難しいんですよ。力は入れず、しかし度胸は据わっていないといけないというのは。三味線と体が一体になっていないといい音はでないしね。若い頃から試行錯誤をしてきましたが、こればかりはセンスの問題。

 テクニックは練習すれば誰だってある程度のところまでいけるんですよ。でもセンスは才能。できる人はできるし、できない人はできない。しかもセンスはキャリアの中で開花することもあります。だから、何事もこの道で行くと決めたら、練習を重ねながら長く続けることが大切なんですね。

運命に導かれるように歌舞伎界へ

杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内杵屋勝国さん=2018年10月17日、東京都内
――在学中から、卒業後は歌舞伎の世界に進もうと決めておられたのですか?

杵屋 芸大の邦楽科を出た方の中には、演奏家になる人やレッスンプロになる人もいますが、私はごく自然に歌舞伎の舞台で演奏したいと思うようになりました。というのも勝三郎先生は歌舞伎座にも立たれていたものですから。

 私が初めて歌舞伎座の舞台で演奏したのは、在学中の昭和39(1964)年です。演目は中村富十郎・中村雀右衛門の「二人椀久」。勝三郎先生が立三味線、私が5枚目で弾きました。勝三郎先生と一緒に歌舞伎座で演奏するというのは私の目標の一つだったので感無量でした。そうした得難い経験を経て、歌舞伎界へ入ったということに運命的なものを感じます。

――運命的なものとはおもしろいです。

杵屋 坂東玉三郎さんとのご縁も、不思議なものでした。昭和54(1979)年、改装前の新橋演舞場で玉三郎さんの「京鹿子娘道成寺」が行われた折に、私は芳村伊十七さんの脇三味線(立三味線の脇に座って補佐をする演奏家)として参加しました。その翌年、浅草公会堂で浅草歌舞伎が旗揚げされ、玉三郎さんが「鷺娘」を踊られた折に、今度は立三味線として演奏して欲しいと言ってくださったのです。以来、「鷺娘」は800回くらいやっていますし、玉三郎さんの舞台はすべて私が立三味線を務めています。

 玉三郎さんは「国さん、私の踊りに合わせようなんて思わないでね。長唄のとおりに弾いてね」と。私を立ててくださる心遣いにお人柄が現れています。もう一つ、踊りと演奏がピタリと合い過ぎるとつまらないということがあるのです。

 玉三郎さんの舞台は、ご自身はもちろんのこと、音も照明も何もかもが完璧なのですが、さすがに天才は感覚の鋭さが違うなと感嘆します。

17代勘三郎から三代に渡って立三味線を務め

――今回の舞台は、2012年に他界された中村勘三郎さんの七回忌追善公演でした。

杵屋 18代勘三郎さんの「おはこ」といえる演目で構成されていますが、舞台でご一緒する機会の多かった私とっても馴染み深いものばかりです。「大山酒呑童子」などは、17代の勘三郎さんの時から三代に渡って立三味線を務めさせていただいています。皆さん、それぞれに持ち味が違うんですね。

 17代の勘三郎さんは、花道に登場するだけで絵になって客席が湧くといった華やかなオーラのある方でした。18代の勘三郎さんは表現力が普通ではない。観ている人をどんどん魅了していくという人間味に溢(あふ)れた役者でした。それから勘九郎さんの持ち味は真面目で基本に忠実であること。大変な努力家で踊りの上手さは先代を越えているかもしれません。まだお若いので今後ますます芸に磨きがかかり、先代の持ち味を併せ持つ役者になっていくことでしょう。楽しみですね。

人間味あふれる天才だった18代中村勘三郎

18代中村勘三郎と舞台に立つ杵屋勝国さん18代中村勘三郎と舞台に立つ杵屋勝国さん

――勘三郎さんは、やんちゃでチャーミングな方だったと聞きます。

杵屋 その通りですね。私が初めて勘三郎さんの舞台で立三味線を務めたのは、昭和55(1980)年。35歳の時でした。浅草公会堂で玉三郎さんの「鷺娘」と同じ時に、24歳だった勘三郎さんの「伴奴」の演奏をしたのです。以来、地方巡業の折などは食事に行ったり、飲みにいったりして楽しい時間をご一緒させていただきました。そうした時には芸の話だけではなく、腹を割っていろいろな話をしましたよ。時にはくだらない話もね(笑)。

 勘三郎さんというと「身替座禅」が頭に浮かびます。大名の山蔭右京役をユーモラスに演じられ、まさに当たり役。私は演奏しながら勘三郎さんのチャーミングなお人柄が芸に生きているなと思っていました。天才たるゆえんですね。

 勘三郎さん、勘九郎さん、七之助さんの「三人連獅子」も思い出深いです。何回も何回も練習している姿を見ていましたからね。何としてもこの舞台を成功させたいという勘三郎さんの情熱が伝わって来て、私も本当に心を込めて演奏することができたと思います。万雷の拍手に包まれた時は感動して思わす目頭が熱くなりました。

 こうして話していると悔しくなってきます。返す返すも56歳という若さで亡くなられたというのが残念でなりません。しかし、勘九郎さん、七之助さんの舞台を天国から観て、さぞかし安堵なさっておられることでしょう。

大切なのは間合い

――杵屋さんにとって三味線の最大の魅力とは?

杵屋 長唄は150曲くらいあって、歴史物もあれば、伝説を扱うものもある。いずれにしても、たくさんの登場人物がいるでしょう? たとえば「大江山酒呑童子」であれば、酒呑童子の場面では酒呑童子になりきり、源頼光の場面では源頼光に感情移入して演奏しますので、いろいろな人生を生きることができる点が魅力的ですね。

――大変だなと思うこともありますか?

杵屋 クラシックでいうところのコンダクターである立三味線は責任重大でね。大切なのは間合いです。役者さんとの間、複数人の唄と三味線、曲目によって小鼓、中鼓、大鼓や笛などで構成されるお囃子衆との間も、「はっ!」「よっ!」といった掛け声で合わせていきます。でも今日は上手くいったと言えるのは25日の公演中、1度か2度くらい。

 だからボンヤリしていてはいけないけれど、人間だから上手くできないこともありますよ。長唄衆にもそう伝えます。感情的になる人に立三味線の資格はないといえるでしょう。ガミガミ言って人間関係が悪くなったりしたら、気を合わせて演奏することができません。何があろうといい舞台にするという本来の目的を忘れてはいけないのです。

日本の伝統芸術の魅力を広く伝えていきたい

――最後に今後の抱負をお聞かせください。

杵屋 これからも気を抜かず、精進あるのみです。ただし無理せず、と決めています。若い頃は舞台の掛け持ちも平気でこなしていましたが、今はできなくなったというより、やらない。欲張っていい演奏ができなくなってしまったら、元も子もありませんから。

 今の段階では、まだまだオファーが来ればお引き受けするけれど、引き際も大事だと思っています。少しでもテクニックに衰えを感じたら表舞台からは引退し、後進の育成に力を注いでいくつもりです。世代交代は世の常。誇りを持って潔く退き、若い人の活躍の場を広げることも先人の務めなのではないでしょうか。

 どんな形であれ、命ある限り長唄三味線に関わっていたい。そうして歌舞伎や長唄といった日本の伝統芸術の魅力を広く伝えていきたいと思っています。

杵屋勝国(きねや・かつくに)さん
昭和(1945)20年、福岡県生まれ。東京芸術大学音楽部卒業。6歳で三味線を始め、小学校3年の時に杵屋寿太郎に入門。福岡電気ホールにて10歳で「多摩川」を演奏したのが初舞台。14歳で杵屋勝国の名を許される。その後、七代目杵屋勝三郎師に師事。歌舞伎界では1980年浅草公会堂での「鷺娘」「伴奴」で初めて立三味線を務め、以後、坂東玉三郎丈、故・十八代目中村勘三郎丈の歌舞伎舞台で常時立三味線を務めてきた。その他、多くの歌舞伎公演や長唄演奏公演、テレビ、ラジオに主演、長唄の創作、「長唄名曲全集」などのCD、DVDを発表するなど幅広く活躍。1982年にジャパンソサイティ75年記念アメリカ公演に出演、デンマーク政府招待による独奏公演、ハワイ、ヨーロッパでの長唄演奏公演など海外での活動も行っている。主な受賞歴に2014年文化庁長官賞表彰など。現在、一般財団法人杵勝会理事長、長唄くにね会主宰。