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『日本国紀』百田尚樹に決定的に欠落している認識

福嶋聡 MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店

百田がこの本にどんなメッセージを込めようとしているか、ではないだろうか?百田尚樹氏が『日本国紀』込めたメッセージは何か?

 百田尚樹の「通史」『日本国紀』(幻冬舎)では引用史料を一切示されず、歴史書の体をなしていないこと、そして叙述自体のいくつかの箇所がウィキペディアのコピーであることの批判が、ネット上で飛び交っている。だが、前稿で書いたように百田自身が実証的な歴史書ではなく壮大な物語であると宣言している『日本国紀』が実際にベストセラー化している今、むしろ重要なのは百田がこの本にどんなメッセージを込めようとしているか、ではないだろうか?

 百田の書きたかったのが、後半4割強を使った明治維新以降の近現代史観であることは間違いない。そこには、百田の思想が、前面に出てきている。「一説によると」と、諸説から自分の考えに合うものをピックアップするのではなく、自説を高らかに表明している。それは、天皇への敬慕と天皇制の強い支持、「大東亜戦争」肯定論、反共、反新聞である。

日本が満州の開拓に本格的に乗り出したのも、欧米のブロック経済の煽りを受けたせいだった。後に「大東亜共栄圏」を構想するが、その目的もアジアに「円ブロック」を築こうというものだったのだ。(p352、引用は第4刷。以下同様)
日本政府の無為無策では南満州鉄道や入植者を守れないと判断した関東軍は、昭和六(一九三一)年九月、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の仕業であるとして、満州の治安を守るという名目で軍事行動を起こした。(p358)
第二次上海事変は中華民国の各地に飛び火し、やがて全国的な戦闘となった。ただ、日本が戦闘を行なったのは、そもそもは自国民に対する暴挙への対抗のためであって、中華民国を侵略する意図はなかった。(p367)

 日本の中国「進出」は、あくまで西洋列強の経済封鎖への対抗策であり、アジア侵略の意図は無かったと言い切っている。韓国併合も然り。

日本が清と戦った一番大きな理由は、朝鮮を独立させるためだったのだ。朝鮮が清の属国である限り、近代化は難しかったからである。(p307―308)
日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行なうつもりはなく、朝鮮半島は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットがなかったのだ。統監の伊藤博文自身が併合には反対の立場を取っていた。(p326)
繰り返すが、韓国併合は武力を用いて行なわれたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行なわれたものでもない。(p327)

 そして、言う。

日本は国際連盟規約に、「人種差別をしない」という文章を入れることを提起する。これ以前に、国際会議の席上で、人種差別撤廃をはっきりと主張した国はない。これは人類の歴史上、画期的なことであった。(P340)

 「大東亜戦争」は、アジアを蔑視し植民地化した西洋列強からアジアを解放する「正義の戦争」であり、残念ながら日本は負けてしまったが、戦中に西洋を追い出した奮戦が、アジア人に自信を与え、脱植民地ー独立へと導いたと言うのである。

インドのネルー首相は十六歳の時、〔日露戦争での〕日本の勝利を聞き、「自分たちだって決意と努力しだいではやれない筈がないと思うようになった。そのことが今日に至るまで私の一生をインド独立に捧げさせることになったのだ」と語っているし、ビルマ(現在のミャンマー)の初代首相のバー・モウは「日本の勝利は我々に新しい誇りを与えてくれた。歴史的に見れば、日本の勝利は、アジアの目覚めの出発点と呼べるものであった」と語っている。(P 321、〔〕内引用者)
東南アジアの諸国民は、欧米列強による長い植民地支配によって「アジア人は白人に絶対に勝てない」と思い込んでいた。その認識を覆したのが、日本人だった。無敵の強者と思われていた白人をアジアから駆逐する日本軍を見て、彼らは自信と勇気を得たのだ。(p445)

『日本国紀』(幻冬舎)
 強く、優秀で、善良な日本が、アジアのリーダーに相応しい、と言わんばかりである。そこには、韓国や中国をはじめとするアジア諸国へのおぞましいばかりの優越意識が、あからさまに感じられる。百田が描く日本古代~近世の「物語」に込められたサブリミナル効果が、読者に優越意識を伝染させる。

 なればこそ百田は、東京裁判による断罪、日本国憲法、先の戦争を日本の侵略戦争と見なす戦後知識人たちを徹底的に批判する。「日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません」という百田のテーゼが、戦後日本に関しては当てはまらないからである。

 なぜ、そうなったか?

「共産主義」を過大評価?

 百田は、GHQの占領政策、その中での「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」=「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」が諸悪の根源だと糾弾する。

これは日本人の精神を粉々にし、二度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものであった。東京裁判もその一つである。そして、この施策は結果的に日本人の精神を見事に破壊した。(p421)
共産主義者に影響されたGHQの占領政策は、その後の壮大な「歴史戦」の端緒となった。(p432)

 それは、半世紀後の「河野談話」「村山談話」まで続く、という。

敗れた日本が取り戻せなかったものがある。それは「愛国心」と「誇り」だ。これらは戦後、GHQに木端微塵にされ、占領軍が去った後は、彼らの洗脳を受け傀儡となったマスメディアや学者たちによって踏みつぶされ続けた。(p444)

 GHQが、日本が「二度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするため」に施した洗脳(WGIP)を引き継いだのが、戦時中追放されていた学者、知識人、そしてマスメディアだというわけだ。戦後を「素晴らしい歴史」の例外にした元凶である彼らを、百田は「共産主義者」と一括りにする。「共産主義者に影響されたGHQ」というのは、いやはや大胆な形容である。これらの箇所には、百田の強烈な反共意識が表れているといえるだろう。

 余談だが、百田は、日本史上のさまざまな事件の原因を、ほとんどその主要人物の感情・思惑に帰している。

もし清盛が継母の言葉に耳を貸さず、また義経の母の情にほだされなければ、歴史が変わっていた可能性は大である。……その裏に、男と女のドラマ、人間の情愛、欲望と怒りが大きく関係していることもまたたしかだ。歴史の転換点でそうした人間の情念が顔を出した時、流れが大きく変わるというのが面白い。(P87)
大乱のきっかけは、息子を将軍にしたいという母の我儘な思いだった。歴史というものは、しばしばそんな人間的な感情から大きく動くが、応仁の乱もまたその一つであった。(P130)
この事件〔本能寺の変〕に関しては、多くの作家が様々な説を述べているが、私は明智光秀が個人的な恨みから起こした単純なもので、用意周到に練られたものではなかったと思っている。なぜなら、その後の行動がきわめてお粗末だからだ。(P142、〔〕内引用者)
もし茶々が敢えて不義の子を産み、その子が豊臣家を継いだなら、ある意味、復讐を果たしたといえなくもない。真相は永遠に謎だが、戦国の世にはこうした男女の生々しいドラマもまた渦巻いていた。残された証言によれば、秀頼は秀吉に似ず、背の高い偉丈夫であったという。(P161−162)

 日本の歴史を動かしたのは、個々の人間の情愛、欲望、我儘、恨み、復讐というわけだ。作家らしい考えといえばそれまでだが、その奥に、経済構造の矛盾が歴史を動かすという、百田が忌み嫌う共産主義の唯物史観の絶対的な否定が潜んでいると読むのは、穿ち過ぎだろうか?

国労(国鉄労働組合)などでは、共産主義者たちが、共産主義に反対する人々を、逆に共産主義者だと名指しして解雇し、実権を握った。こうして共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしていくことになる。(P436)
占領軍が去った昭和三〇年(一九五五)頃から、新聞は反米路線に舵を切る。これは公職追放後にマスメディアおよび教育界や言論界に大量に入ってきた共産主義者や社会主義者たちの影響だった。(P457)

 確かに、戦後すぐの日本共産党は革命への意気高く、全国の労働運動にも深く入り込んでいたことは現在とは大きく違う。当時は武装闘争路線をとっていたし、その一部がやがて連合赤軍などの「過激派」に流れていったことも事実だ。だが、「共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしていく」「マスメディアおよび教育界や言論界に大量に入ってきた共産主義者や社会主義者たち」という百田の見立ては

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