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橋本治は「頭」より先に「体」がある人だった

私が経験した「些細だが大事なこと」。追悼の列に連なって黙祷を

今野哲男 編集者・ライター

橋本治さん橋本治さん(1948―2019)

橋本治が逝った

異能の自由人

 2019年1月29日の15時9分。作家にして批評家、さらに日本古典の翻訳家でもあった橋本治が逝った。

東大駒場祭の歴史的なポスター東大駒場祭のポスター=筆者提供
 小説・戯曲はWikipediaで拾えるだけでも36点48冊、評論・エッセイは94点111冊、古典現代語訳が12点41冊、対談などの共著は合わせて9点9冊、加えてクリエーターとしての彼の社会的な出発点が、「全共闘運動」と「東大闘争」がピークを迎えた1968年の、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」のコピーで知られる、東大駒場祭の歴史的なポスターにあったことを暗示する『橋本治画集』(マドラ出版、1991年)と『橋本治歌舞伎画文集―かぶきのよう分からん』(演劇出版社、1992年)なども出している。

 1978年のデビュー小説『桃尻娘』(講談社、現・講談社文庫、ポプラ文庫・品切れ)と、1979年に日本で初めて漫画を本格的に論じたデビュー評論『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(北宋社、現・河出文庫)を世に問うて以来、絶え間なく時代の先端での作家・評論活動に専念してきた40年超の間に、手元の資料でわかるだけでも都合153点211冊、さらに少数ながら作詞やTVドラマの脚本もあるという、多産多彩な上に生産力にもほとんど浮き沈みがなかったという怪物だ。

 1948年生まれの享年70。その変幻自在な文体構築と、「真面目にふざける」というユニークな哲学、並びに明治以降の日本に批判の目を向ける反近代的な姿勢を変わりなく貫いて、そろそろ死語化するかもしれない「団塊の世代」を、多数派として正面からではなく、裏口から代表する稀有な少数派として、結果的にはその後の80年代以降に向けた橋渡し役をもなにげに果たすという、この窮屈な現代日本にあって、まさに異能の自由人だったと言える。

 彼の体調や近況は、PR誌『ちくま』の連載「遠い地平、低い視点」を「webちくま」で見ていたこともあって、大まかながら知ってはいた。――ちなみに、この連載は死の直後の2月5日付で、昨年(2018年)8月号の掲載分までが『思いつきで世界は進む――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』と題して刊行されている(ちくま新書)。ちなみにこの本の最終回にあたる「反知性より無知性がこわい」というエッセイの一つ前の記事は、「人が死ぬこと」というタイトルの、闘病中と思しい時期に書かれた、今となれば痛ましさを禁じ得ないエッセイだ。

 そういう次第だから、知らぬ間に心の準備ができていたということがあって、訃報を聞いたときには、驚きよりも、「ああ、とうとう」という惜別の思いが強くこみ上げた。寂しかったというか、橋本治の不在という事実が思いのほか身に沁みたのだ。そして、「団塊世代の巨星、ついに落つ」などと柄にもない言葉が頭をよぎり、少しセンチメンタルにもなった。たいした付き合いもなかったのに、と。

 しかし、私には橋本さんが絡むと思い出さずにはいられない、些細だが個人的にはとても大事な、ある出来事があったのである。その説明の前に、訃報が出回ったときのある人の反応について、少しだけ書いておく。「些細だが大事なこと」をわかってもらうためには、それが格好の補助線になると思えるから。

1996年1996年、東京・有楽町で

内田樹の過去の書評から

 彼の死後には、当然だが、マスコミの速報以外に、ネットにも多くの追悼の投稿が寄せられた。考えてみれば敵らしい敵がいなかった彼らしく(彼と同じ土俵で戦おう、戦えると考える人は、どのジャンルであれ日本にはおそらくいなかったからだろう)、少なくとも初日は、ほとんどが心のこもったファンからのゆかしい投稿で占められていた。

 中で、私は、橋本治が若いころからの変わらぬアイドルだと公言し、『橋本治と内田樹』(筑摩書房、現・ちくま文庫、2008年)という対談集を出している内田樹が、その日のうちに「内田樹研究室」という自身のブログに、「追悼・橋本治」というタイトルで、「その1」 (2019-01-29 20:29)「その2」 (2019-01-29 20:57)、「その3」 (2019-01-29 21:00)と、彼自身が過去に書いた橋本さんの本についての書評を3本、短いコメントをつけて矢継ぎ早にアップしたことに興味を惹かれた。とくに印象が深かったのは、「『橋本治という考え方』(朝日新聞出版、品切れ)についての書評ではないかと思うけれど、定かではない」という、おとぼけ気味の断り書きをつけて紹介された「説明する人―橋本治」というタイトルの書評にあった橋本治自身の次のことばだ。

橋本治が言った

 「私の場合、『よく分かんないからこの件で本を書こう』というのがとっても多い。分かって書くんじゃない。分かんないから書く。が分かることを欲していて、その体がメンドくさがりの頭に命令する―『分かれ』と」(太字は筆者)

 これを内田樹の書評はこう読み解いている。

 橋本さんは書く前に「言いたいこと」があるので書いているわけではない。自分が何を知っているのかを知るために書いているのである。
 だから、橋本さんの書くものは本質的に「説明」である。橋本さんの「」が橋本さんの「頭」にもわかるように、「あのね、これはね…」と噛んで含めるように説明しているのである。自分で自分に向かって説明しているのである。…(太字は筆者)

 そして、

 きちんとした説明をするためには、自分の主観的な判断を織り込まないだけでなく、「自分が知っていること」をとりあえず「かっこに入れる」ことができなければならない。自分の主観的判断を自制することのできる人は少なからず存在するが、「自分の知っていることを知らないことにする」という技術を駆使できる人は少ない。きわめて少ない。…

 と。そして、さらにこう続ける。

 『小林秀雄の恵み』(新潮社、2007年―筆者注)もそうだ。「小林秀雄がいて、小林秀雄が読まれた時代の、日本人の思考が知りたい」と思ってこの本を書き出した橋本さんは、それまでに小林秀雄の著作を『本居宣長』しか読んだことがなかった。この本を書いたときも小林秀雄について書かれた膨大な先行研究を橋本さんはたぶん一冊も読んでいないと思う。橋本さんは小林秀雄が日本文学史上にどういう意味をもつ存在であるかというようなことには興味がない。興味があるのは、書きつつある小林秀雄をリアルタイムで駆り立てていた「何か」に同調することだけである。書きつつある小林秀雄が見ていたもの、感じていたもの、とりわけ小林秀雄が小林秀雄自身に対して説明しようとしていたことを感知することに橋本さんはつよい興味を抱いた。
 橋本さんはそういう点ではたぶんいつも自身の「同類」を探しているのだと思う。自分の知らないことを自分自身に向かって説明することに長けた書き手。例えば、三島由紀夫はそういう書き手だった。…

 そして、再び言うのだ。2002年に小林秀雄賞を受けた『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社、現・新潮文庫)も、同じように、まず「体」の要求するところに従って、「頭」でもわかるように書かれていると…。

 私はこの意見にほぼ同意する。そして、こういう人は日本には稀だと思う。橋本さんは「頭」より先に「体」がある。「体」の直観(≒実存)が、「頭」(≒本質)に先立っているという徹底した実存を生きてきたのだ。

 そして彼は書いた。彼の実存そのままに。その優秀な頭に納得を与えるために。このメカニズムは、ほとんど巫女やシャーマン、あるいは優れた役者のものだと見える。役者は、予め頭で決めたことをなぞっている限り、「らしい演技」がいくら上手くできても、ついに跳ぶことはない。いま、どこに行くかがわからない「からっぽ」の状態に自分を追い込むことができて初めて、想像力豊かに、一からの飛躍ができるのだ。橋本治の書くものが、緻密な説明にもかかわらず、踊っているように感じられるのは、たぶんそのせいだと思う。

橋本治が行った

 さて、ここで「些細だが大事なこと」に話を戻そう。あれは1988年のこと。橋本さんは『桃尻語訳 枕草子』全3巻(河出書房新社、現・河出文庫)を刊行中の、その後の円熟期に向けて、仕事の幅を広げつつある時期だった。私は、志した芝居では食うことができず、せめて編集者として活路が開けないかと考えるうちに、偶然の悪戯で『翻訳の世界』誌(バベル・プレス―現在は廃刊)に入ることができた、少し年の行った駆け出しの編集者だった。

 専門雑誌だったが「翻訳を通して現代を考えるインターカルチャーマガジン」を旗印に、特集企画の切り口はかなり自由度が高く、個々の記事企画については言い出しっぺが担当するという暗黙の了解もあった。

 で、あるとき、その月のテーマは「訳文はダメになったか?」で行こうと決まって、持ち寄った個々の企画に、誰が言い出したのかは忘れたが、ともかく『桃尻語訳 枕草子』で翻訳の領野でも壮挙を成し遂げつつあった橋本治のインタビューを入れようということになり、その担当を任されることになった。たぶん、全共闘運動にからむイラストレーターだとばかり思っていたら、「桃尻娘」あり「少女漫画」ありで、最近は「編み物」の見方まで変えてしまいかねない橋本さんの、古典の現代語訳という例を見ないタイプの「勢い」について、我を忘れて熱弁を振るったせいだと思う――1983年に、彼本来の「説明する人」の力と、人に対する「優しさ」が二つながら横溢した『男の編み物 橋本治の手トリ足トリ』(河出書房新社、品切れ)という本が出ていた。

 しかし、編集部の空気に馴染んで企画会議では口が軽くなっていたとはいえ、外に対しては駆け出しそのものの状態だったものだから、まだ依頼の電話一つにも慣れておらず(今もって慣れてはいないけれども)、ともかく頭の中に即席の想定問答集を作り、手に汗を握って本人に電話をかけた。答えは「枕草子? いいよ」という、想定問答はいったい何だったのかと笑ってしまうほど簡単なものだった。

1996年、東京都内の仕事場で

インタビューの「悪夢」

 で、新宿か渋谷かはうろ覚えなのだが、ともかくターミナル駅から一つ離れた小さな駅の近くにある、国道からやや離れた大きなマンションの、確か半地下にあった彼の仕事場を訪ねることになった。カセットテープレコーダーの時代だったから、単三の乾電池と予備のテープを携えて、緊張しつつも会うのが嬉しくて、国道を歩いたときの気分はまだ「体」が覚えている。

 そして、会った。道々頭の中で復唱した訊きたいことの要旨を述べ、型通りの口上が終わって始まったインタビューは、「ふーん」と納得して聴いていたことの他には、記憶があまり鮮明ではない。橋本さんの言葉が途切れないようにと気を遣いながら、細い目でニコニコして、言葉が赴くままといった風に丁寧に「説明」してくれるのを、(これはいい記事になりそうだ)などと安心して聴きながら、碌(ろく)な質問もせずにただ対面した彼の目を見て座っていたのだと思う。

 そうしてインタビューは終了。挨拶して、多少の世間話は交わしたのだったろうか、ともかく無事に終了したと安心していたのだ。ところが……。

 駅に向かう帰り道の道すがら、翳(かげ)りはじめた9月の陽の光を浴びて、大仕事の後の宙ぶらりんな気分を弄(もてあそ)び、のんびり今後の予定などを考えながら所持品の確認をしているうちに突然気がついたのだ。テープが回っていなかったということに。

 あまりの悪夢に、一瞬呆然とした。しかし、そのまま茫然としていても埒(らち)が明かないことぐらいはどうやらわかったのだろう、国道沿いの公衆電話に飛び込んで、ともかく橋本さんを呼び出した。訳を話し、「どうしましょうか」と間抜けな質問をすると、一瞬おいて橋本さんが言った。「まだ時間はある?」と。その声に光明を感じとった私が「はい、ぼくは大丈夫です」と応えると、また一瞬の間があっただろうか、彼は「じゃ、やり直そうか」と言い、「今ならまだ、言ったことを繰り返せるかも」と続けた。「はい、じゃ、戻ればいいでしょうか」「もちろん」……。

 後から考えると、この時の橋本さんの受け答えの優しさといったらない。当事者意識も覚束ない老けた若造を相手にして、不満な顔一つせず、むしろ積極的にリードまでしてくれたのだから。だが、彼の真骨頂は、実はこの後、仕事場で2度目のインタビューを始めてから見せてもらうことになるのだ。

橋本治さんの「体」が許さなかった

門間新弥撮影 2017年2017年、撮影・門間新弥
 ここからは簡潔に書く。私が戻ると、彼はあまりない失敗に呆れたのか、むしろ素っ頓狂な共犯者でも扱うかのように、微笑んで遇してくれた。そして、今度は念入りな録音チェックを経て、「桃尻語訳 枕草子は~」と話し始めたわけだが、1分か2分もすると「うー」とか「あー」とか、果ては「おぉーっと」などと唸り出し、とどのつまり「やっぱりダメ。思い出そうとしたら気持ちが悪くなって思い出せないよ」と言って、談話は否応なく打ち切られたのである。

 私はもうどうしようもなく、仕事のことも忘れて、(正直な人だなぁ)と思った。滅多にない感動を味わったと言ってもよい。「ただ今、ここ」での心の動きを抑圧し、前に言ったことをただ思い出そうとするなんて、前述した内田樹の言葉を借りれば、「頭」では許しても、橋本さんの「体」が許さなかったのだと思う。私は役者としての経験を思い出し、ともあれなぞるようなインタビューのやり直しはしないことに納得し、それだけではなく、この「体」の経験は、以後の拙い編集者生活の隠れたよすがになったのである。

 橋本さん。おそらく味わったことも、味わいたくもなかった境地に行くという、とんでもない経験をさせてしまって申し訳ありませんでした。どうぞ安らかにお眠りください。

*ちなみにこのインタビューは、日を変えて「一から出直すこと」になり、その結果は『翻訳の世界』1989年11月号に、「『嵐が丘』を今のヒースクリフとキャサリンで読ませろ! 古典現代語訳の地平から日本語表現の文体水準を見る」と題して、予定通りに掲載されました。