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[書評]『都市空間の明治維新』

松山恵 著

松本裕喜 編集者

明治初期東京の都市空間

 だいぶ前に読んだ本だが、藤森照信『明治の東京計画』(1982年)によって明治期東京の町づくりを、また陣内秀信『東京の空間人類学』(1985年)によって江戸から東京へと続く都市構造を少しは知っているつもりだった。しかしそれから30年余、明治維新期の都市研究がさらに深められていることをこの本で思い知らされた。

『都市空間の明治維新――江戸から東京への大転換』(松山恵 著 ちくま新書)定価:本体880円+税『都市空間の明治維新――江戸から東京への大転換』(松山恵 著 ちくま新書) 定価:本体880円+税
 江戸は江戸城を中心に武家地・町人地・寺社地などで構成され、うち7割は武家地(大名屋敷、旗本屋敷)が占めていた。明治新政府が首都をどこに置くかを選択するにあたって、江戸の武家地とそこに建つ武家建築の存在が決め手になったと著者はみる。

 維新当初の都市計画では、郭内・郭外の仕分けが大きな位置を占めていた。

 江戸では四谷見附、赤坂見附などの見附の門で囲まれた江戸城を取りまく外濠の内側を郭内(内郭)、その外側で朱引きまでの範囲を郭外(外郭)と呼んでいた。

 新政府にとって首都東京の拠点は郭内であった。太政官、神祇官などの政府組織は皇城内か内郭に置かれた。郭内の武家屋敷には岩倉具視などの京都の公家が移り住み、大名たちは郭外の中屋敷か下屋敷に追いやられた。いわば東京の植民地化である。

 そして明治5年の銀座の大火をうけて、建築の不燃化と道路整備の二つを軸とする銀座から築地にかけての煉瓦街計画が起こる。著者はこの都市計画を新政府による首都改造の一環とみるが、実務を担当する東京府と大蔵省は対立、明治7年に銀座煉瓦街が建設されたのみで計画は頓挫した。

 この本の面白いところは、地図類や歴史史料を駆使して郭外(外濠の外側で、東は平井・亀戸、西は代々木・角筈、南は品川、北は千住・板橋までの範囲)の再編について踏みこんだ解釈を行っている個所で、先行研究への率直な批判も随所にみられる。

 郭外は街道周辺の町人地以外は大名屋敷と旗本屋敷であった。東京府は空き地となっていた武家地に桑と茶を植え付けて殖産興業の道を探るべく、明治2年8月、桑茶令を発す。生糸と茶は当時の日本の主たる輸出品で、生糸は桑を餌として食べる蚕の繭からできた。

 明治2年の東京府には50万人の町人層が住んでいたが、うち富民(富裕層)の地主・地借が19万人、貧民の床借(借家人)が20万人、極貧民(飢饉時の公的扶助の対象者)が10万人、極々貧民(救育所入所希望者)が1800人であった。

 桑茶令で開墾者に想定されていたのは富民であった。東京府は東京の住民を貧富の差に応じて区分けしようとしていたと著者はみる。この時期の東京では、郭内と縁(ふち)を接する武家地を町人地に転換し場末の富民層を移転させる政策が進められていた。明治東京の三大貧民窟の一つである四谷鮫河橋も富民が中心部へ移住した後に貧民窟が形成されたのである。2年後の明治4年には桑茶令は廃止となった。

 幕末以来、家禄を失った武家や武家奉公人などから多数の貧窮民が生まれていた。東京府は貧民たちを下総(千葉県北西部)や北海道へ開拓農民として移住させた。「救育所」はこうした開拓労働に向かない人々を収容する施設で、麹町・三田救育所には老人や寡婦、高輪救育所には無宿や乞食などが収容された。麹町や高輪が現代では高級住宅地に生まれ変わっているのも歴史の皮肉なのだろうか。同時期、深川には女性の貧民層を対象に機織りの技術を習得させる深川授産所も設けられた。

 明治4年10月にはこれらの救育所も閉鎖される。三田救育所があった薩摩藩・徳島藩の江戸屋敷の跡地4万5000坪の地主福島(屋)嘉兵衛という人物に著者は注目する。福島嘉兵衛は参勤交代の人足などの供給を請け負う商人(六組飛脚屋、人宿)だった。幕末期には江戸から関西に拠点を移し、戊辰戦争では薩摩藩の人足頭も務めた。

 東京府は麹町・三田・高輪の3救育所の廃止にあたって、この福島嘉兵衛に入所者数百人の養育と東京市中の「無籍人」(無戸籍状態で無宿の人)の世話をゆだねたようだ。嘉兵衛は自らの肩書を「窮民引受人」と記した。その見返りとして嘉兵衛には三田・高輪救育所の跡地が無償で貸与されたほか、市中一般の下肥汲取り、市内各所の下水浚いなどの事業権が与えられた。膨大な利権であったようだ。明治6年2月、上野公園内に養育院が設立された後は窮民の大半は町に預けられるか養育院に送られたようだが、この福島嘉兵衛の追跡調査をこの後もぜひ続けていただきたいものである。

 著者の視線は小商人・芸能者(民の側)によるもう一つの都市再編にも及んでいる。

 江戸期、橋のたもとや広小路などには様々なものを商う床店(露店)や芝居小屋などが立ち並ぶ盛り場としての広場が発展した。しかし明治新政府の地租改正をはじめとする土地制度は、すべての土地を官有地と民有地に分け、官有地では私的な利用を許さず、民有地からは地租(地代)を徴収した。この結果、(官有地である)公道の広場は様相を一変した。筋違(すじかい)広小路(のちの万世橋広場)は明治初年までは様々な露店商人・芸能者が寄り集まる広場(盛り場)だったが、明治6年の地租改定後は花壇と竹籬で囲われ、人を滞留させない空虚な空間へと変貌した。

 しかし、いったんは強制的に解体された広場は移動しつつ甦ってゆく。民有地となった武家地跡地からは地代が徴収され、大名華族も再開発や土地の切り売りを強いられた。たとえば丹波篠山藩の上屋敷(神田連雀町18番地)は、屋敷を壊し、縦横に小路を付け新開町として開発された。すぐ北側には筋違広小路が接していた。広小路を追われた芸能者・興行元らはこの地に芝居小屋や店を借り受けることで盛り場を持続したのである。『東京新繁昌記』を書いた服部撫松はこうした新開町を江戸の広場の継承者とみなした。

 このほか、美濃高須藩松平家の藩邸から東京有数の花柳界に発展した四谷荒木町、福山藩阿部家が住宅地として開発した本郷西片町などの紹介もある。

 ふと思った。現在の後楽園は水戸徳川家の上屋敷、六義園は柳沢吉保の下屋敷である。江戸には後楽園規模の武家の庭園が数百あったという。もしその何割かを残すことができたなら、東京は花と緑にあふれた世界に冠たる田園都市になったのではないか、と。

 都市論としては景観についての記述が少ない気もするが、新たな視点から明治初期東京の都市空間を切り開いて見せてくれる本だと思う。昨年出た横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波新書、「遊廓の明治維新」の章はすばらしい)とあわせ読めば、維新期の江戸東京の姿がさらにくっきりと浮き上がってくるのではないだろうか。

*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
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