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大ヒットから40年 二人の「異邦人」の心の旅 

あの名曲を歌った久保田早紀から久米小百合へ。今はキリスト教のために歌う日々

丸山あかね ライター

久米小百合さん久米小百合さん

 1979年に発売され、140万枚の大ヒットとなった昭和の名曲「異邦人」。あれから40年がたった今年の2月、一冊の本が出版された。『ふたりの異邦人』(いのちのことば社 フォレストブックス)。著者の久米小百合さんこそが、「久保田早紀」という名のシンガー・ソングライターとして「異邦人」を生み出した人物なのだ。

 芸能界引退後、賛美歌を通じてキリスト教を伝える音楽伝道者に転身し、精力的に活動を行っている久米さん。東京・銀座の教文館ウェンライトホールにて出版記念トークイベントが開催された3月15日、執筆をめぐる想いを聞いた。

自伝「ふたりの異邦人」を出版して

『ふたりの異邦人』(いのちのことば社 フォレストブックス)『ふたりの異邦人』(いのちのことば社 フォレストブックス)
――自伝の出版、おめでとうございます! たちまち重版ということで凄いですね。

 ありがとうございます。重版と聞いてホッとしました。売れなかったらどうしようと不安だったものですから。いよいよ出版という段になって、私の本なんて誰が買ってくれるのかしら? とか思ってしまったりして。

 そうしたところが、「昭和というのは本当にいい時代でしたね」とか、「青春時代を懐かしく思い出しました」といった感想が寄せられて、そこかと(笑)。音楽の力ですね。ピアノでビートルズの曲を弾けるようになりたかったというくだりや、フォークソングブームで盛り上がっていたといった音楽の話は、同年代の人達の共通項なのでしょう。

 「夜のヒットスタジオ」や「ザ・ベストテン」など、歌番組の話からお茶の間のテレビを一緒に見ていた家族の思い出、当時の恋愛の記憶などが蘇(よみがえ)ったと言ってくださる方もいます。

――本を出版された経緯について教えてください。

 還暦の節目に本を出版したら? と周囲の方に勧められました。文章を書くのは好きなのですが、書き始めてから長い文章を書いたことはなかったかもと気づいて(笑)。お引き受けしなければよかったと後悔するほど大変でした。

 でも、今は書いてよかったと思っています。いろいろスッキリしました。「なぜ芸能界を引退したのか」「どうしてキリスト教へ改宗したのか」といったことについては、今だから話せることもありますし、いつか胸の内を明かしたいと思っていたので。

――久保田早紀さんとして活動していた時代のことを封印していた時期もあったようですが、過去と向き合い、記憶の掘り起こしをするのは大変な作業だったのではありませんか?

 本を書くと決めたからにはということで、とにかく正直に、等身大で書くよう努めました。ついつい、いい人を装ったり、かっこよくまとめたりしたくなってしまうのですが、それをしたらダメだと自分に言い聞かせて。あの時、本当はどう思っていたんだっけ? どういう大人の事情が絡んでいたのだっけ? と思い出しながら。昔から記憶力はいいんですよ。けっこう細かいことまで覚えてました。

アイドルコンテストだと知って、シマッタ!

――久米さんは幼い頃からピアノを習ったり、お友達に誘われて教会の日曜学校で賛美歌に触れたりして育ったのですね。中学時代にはバンドでキーボードを担当し、ユーミンさんの歌に影響を受けて作詞作曲を手掛けるようになりますが、そこから「異邦人」でデビューするまでの経緯が面白い。ミス・セブンティーン・コンテストに出場して……。

 いや、あれは(笑)。自分の作った歌をプロに評価してほしいなという想いがあって。そんな時に母が新聞の切り抜きを見せながら「これに応募してみたら?」って勧めてくれたのがミス・セブンティーン・コンテストだったんです。確かに「自作自演の人も募集中」とあったので、うっかり応募してしまったのですが、アイドルを発掘することが目的のコンテストだと知って、シマッタ! と。地区予選に出場が決まった時もお断りしたのですが、音楽に関心のある方にも参加してもらいたいと押し切られてしまい……。

 結局のところ、オーディション会場で自分で作った歌を披露したのです。でも会場はティーンだらけ。一方、私は二十歳を目前に控えた短大生でしたので完全に浮いてました。もちろん落選でした。

名曲「異邦人」の誕生秘話

「異邦人」のレコードジャケット「異邦人」のレコードジャケット(提供:ソニー・ミュージックダイレクト)
――でも、この話には続きがあって、後日、オーディション会場にいたというソニーの方から「他の曲も聴いてみたい」と連絡があったのでしたね。

 ええ。ソニーのスタジオで待ち受けていたのは金子文枝さんという音楽プロデューサーでした。金子さんこそが、久保田小百合(結婚前の本名)を歌手・久保田早紀へと導いてくれた運命の人でした。

 私が作った「白い朝」という歌を聴いて「手を加えれば面白い歌になるかもしれない」と言ったのも金子さん。後に「異邦人」と改名されました。しかもシルクロードの歌ではなく、八王子の歌でして……。市ヶ谷から中央線に乗って、当時住んでいた八王子の実家に帰る途中のことでした。ぼんやりと窓から外を眺めていたら、元気に遊ぶ子供達の姿が目に飛び込んで来て、いい光景だなぁ、忘れないようにしようと手帳に記したのが「子供達が空に向かい、両手を広げ……」という走り書きだったのです。

――それがなぜ、シルクロードの歌になったのですか?

 当時、ジュディー・オングさんがエーゲ海の歌を歌って大ヒットしていたのですが、制作のチーフプロデーサーだった酒井正利さんが「次はシルクロードだ!」と(笑)。実のところ、私は半信半疑だったのですが、本当に来たんですよ。シルクロードの時代が。

 NHK特集「シルクロード」の放送が始まると中近東に注目が集まり、旅行会社が一斉にツアーを組んだりして。「異邦人」がリリースされたのは1979年の10月でしたが、翌年の春にアフガニスタンで撮影されたカラーテレビのCMに起用されて広まり、大ヒットへとつながりました。

大ヒットして抱いた違和感

久米小百合さん久米小百合さん
――大ヒットしてどんな心境でしたか?

 もちろん嬉しかったのですけれど、ちょっと複雑な心境でした。私としては「白い朝」というタイトルが気に入っていて、「異邦人」だなんて意味不明だしと思っていたのです。荻田光雄さんの編曲にも驚きました。壮大なイントロを聞いて「こうなっちゃうの? 嘘でしょう」って(笑)。昨日までド素人だったのに、突如としてテレビの歌番組に出演するようにと言われても戸惑うばかりでしたね。

 連日のように取材を受けるようにもなりましたが、音楽性について訊かれたりしても、答えられない自分がいました。下積みがないままにデビューしてしまったので、大ヒットに対する感謝の気持ちは薄かったと思います。それでいて続けていく自信はないし。そもそも人前に出るのが苦手だったので芸能活動に馴染めなくて、芸能界で私はいつまで経っても「異邦人」でした。

――キリスト教に改宗なさったのはデビューから1年半ほど経った頃ですが。

 いつの間にか音楽を楽しめないようになっていて、ふと自分の音楽の原点って何だっけ? と思った時に思い浮かんだのが、幼い頃に教会で聴いた賛美歌だったのです。

 この辺りのことは自伝に詳しく書かせていただきましたが、八王子の実家の近くにあった教会へ行ってみたら、ママさんコーラスの方々が歌っていて、その歌声が心に響きました。私は「愛」という言葉を小手先で使っていたけれど、賛美歌には愛を祈る気持ちが込められている。キリスト教に何があるのだろう? と思いながら教会に通い、やがて洗礼を受けました。

 ちなみに「異邦人」というのは、神を知らない者という意味で、聖書にたくさん出てくる言葉です。そうしたことから、「異邦人」を歌う久保田早紀はキリスト教徒なのだろうと思っていた方が少なからずいたようなのですが、私は仏教の家に生まれ、デビュー当時は聖書すら読んだことがありませんでした。ですから、我ながら不思議な流れだなと思ってます。

引退、結婚、そして音楽伝道者へ

教会で歌う久米小百合さん教会で歌う久米小百合さん(撮影:酒井羊一)
――惜しまれつつ、芸能界を引退したのは84年の11月。九段会館でのコンサートで「久保田商店はシャッターを閉めさせていただきます」とおっしゃったそうですね。

 惜しんでくださる方がいるとは思っていませんでした。「異邦人」がこんなに長く歌い継がれることになるとも思っていなかったのです。そのせいか芸能界に未練はなくて、ヒット曲を作らなくてはという重圧から解放され、無名であることの素晴らしさを享受することができました。

――音楽伝道者としての活動を始めたのは、引退直後にザ・スクエアというフュージョンバンドでキーボードを担当していた久米大作さんと結婚した後ですね?

 はい。ある時、

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