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風景写真家はこうしてユーチューバーになった

「一枚の写真」では感動が伝わらない。「一枚の写真」に至る物語が必要だ!

fotoshin 風景写真家、ユーチューバー

「一枚の写真」で心が動かない!

 カメラを始めたころは「写真は一枚で語るものだ」と強く信じていた。

 もちろん今でも撮影時に強く意識していることである。

 写真家として言葉を使わず一枚の写真から物語を伝えることは憧れであり、一つの目標である。

 けれども、時代はものすごい勢いで変わった。

 誰もが自ら撮影した写真を簡単に共有できるSNSが全世界に広がった。気がつけば私も何の抵抗もなく日常的に使うようになった。

 自ら撮影した写真をいとも簡単に公開し世界へ発信できる。世界中の人々の写真を自由に覗くこともできる。

 画面をスクロールすれば瞬時に世界中の美しい写真達に出会える。まるで写真展に来ているようにワクワクした気持ちになる。

 スマホやパソコンに溢れかえる写真。プロもアマチュアもない。多くの人の心をつかむ写真がものすごい勢いで拡散し、さらに多くの人の心をつかんでいく。

 そうした世界に、私もしばらくは浸っていた。

 物足りなさを感じるようになったのは、いつごろからだろうか。

 どの写真も確かに綺麗だ。でも、心を揺り動かすほどの感動が湧かないのだ。

 自分の感性が麻痺してしまったのだろうか。

 その物足りなさを、他者の写真だけではなく、自分が撮影した写真にも感じるようになったのだ。

 いったい、写真の価値は何によって決まるのだろう。

日本の美しい文化を映し出す星峠の棚田、異世界に導かれるような不思議な朝を過ごす

 風景写真を始めた3年前、価値のある写真とは「綺麗な写真」「海外っぽい写真」「人から評価される写真」といったものと漠然と思っていた。

 SNSで短時間に大量の写真を目にする環境に慣れると、ますます「綺麗さ」「かっこよさ」への欲求は増していった。自分の撮った写真も「とにかく綺麗に仕上げよう」「カッコよく仕上げよう」と思うようになった。

 しかしある時、SNSの写真のほとんどは背景の物語がないことに気づいた。どんな環境で、どんな想いで撮影されたのか。当たり前のように綺麗な写真がそこにあることになんとなく違和感を抱き始めたのだ。

 それらを見れば見るほど、1枚の写真から受ける感動は減ってしまう気がした。写真は1枚で語るものだ――という信念が揺らぎ始めたのだ。

 海外のある写真家の動画と出会ったのは、そんな時だった。その動画が、私の風景写真に対する価値観を大きく転換させることになる。

北アルプス白馬三山を温かい光が包み込む極上の朝、想像を超える自然の美に心震わす

一枚の写真が誕生する物語

 風景写真にのめり込むにつれ、私はYoutubeで海外の写真家の動画を見る機会が増えていた。撮影技術や構図の捉え方を学んだり、日本には無い視点や景色を純粋に楽しんだりするためだ。

 海外のある写真家の動画を見始めてまもなく、気がついたことがある。30分の動画の中でその写真家が公開した写真はたった二枚しかなかったのだ。

 残りは彼が山を登るシーンや自然に感動するシーンが続き、そして、彼がどうしてその被写体を選び、その構図に決めたのかを自分自身で語っていた。

 30分動画に登場する写真は二枚だけ。でも、最後の最後に1枚の写真が登場した時、それまでの冒険やプロセスがどっと押し寄せ、大きな感動がこみ上げてきた。

 それは一枚の写真が生まれるまでの物語であった。

 SNSで短時間に大量の写真に目をやる感覚に慣れていた自分の体のチャンネルが一気に切り替わった。

 私は確かに「一枚の写真」に感動していた。しかし最後の最後に映し出されたその「一枚の写真」をSNSで見るだけでは生じなかった感動であろう。私は「一枚の写真」というよりも、「一枚の写真が誕生する物語」に感動したのだ。

 これは間違いなくこれまでにない風景写真の伝え方であると、その時、確信した。

皆が眠る故郷の山、深夜の登頂で「二人」の木々が語り合っていた

fotoshin channelの誕生

 動画を駆使して風景写真を発信している写真家は日本国内にいないのか。

 すぐに調べてみたが、発見できなかった。カメラ機材の紹介や技術的なことを動画で発信する人はたくさんいる。でも、一枚の写真が生まれる背景にフォーカスした動画を発信している人はゼロに等しかった。

 日本に新しい写真の表現の楽しみを広められるかもしれない。何もかも手探りだが、とにかく始めてみよう――。

 まずはここ数年使わなくなっていた古いカメラを引っ張り出した。上級機ではなかったが、風景を撮影している自分の姿を撮影できるものなら何でも良かった。余っている三脚を組み合わせ、早速自然の中へ飛び込んだ。

 風景写真Youtuber, fotoshin channelの誕生だ。

 私の動画のほとんどは、自分が自然の中を歩くシーンである。その場の光景や生えている植物など自分が魅了されたものを映像にし、音楽を重ねてシネマチックに表現している。私が一人、木々の間で棒立ちして上を見上げるシーンなどを意図的に取り入れている。視聴者の方々にもし自分がそこにいたら、何を感じるのだろうかということを考えて欲しいからだ。時には空撮を用いて非日常的な光景も交えている。

 写真に興味のある方に役立つように、撮影時のカメラの設定を解説している。自分が何に惹かれてこの構図を選択したのかも語っている。

 同時に、普段写真撮影をしない人も楽しめるように、シネマチックな映像と解説とのバランスを考えながら撮影・編集を行っている。

誰にも真似できない究極の物語を

 初めて動画用の撮影に行った時のことは今も忘れない。一人ではやることが多すぎる――そう感じたのだ。

 それまでは風景を撮影することに集中すればよかったが、自分が歩くシーンでは歩いた後に機材を回収する必要がある。撮影している瞬間も解説を挟む。持っていく機材も増える。通常の時間配分ではとても無理だ。肝心の撮影まで気が回らない。

 「これでは本末転倒だ」

 そう思う日々がしばらく続いた。

 自分には向いていないと諦めかけたこともあった。しかしその後もなんとか継続し一年が経過した頃、少しずつ自分なりのスタイルが固まってきて、楽しむ余裕ができた。

 もちろん印象的な写真を撮らなければならないというプレッシャーは常にある。でも、ほとんどのシリーズで自分が心から感動した光景を撮影することができていると思う。

厳冬期北アルプス西穂高岳の稜線にて、朝日が一瞬顔を出し山の一部を淡く染めた

 かつて私にとっての風景写真とは、カメラを持って外へ行き、撮影後に現像して作品を作るものであった。

 しかし今は写真だけでなく、その写真の撮影に至る物語を伝える動画も大切な作品である。動画を用いて撮影プロセスを見せることは写真家の新たな表現方法の一つであると感じている。

 動画で見せる重要性は今後ますます増すだろう。

 コンピューターやソフトウェアの発達で画像を簡単にレタッチでき、誰でも美しい写真を作りやすい時代になってきている。自分らしさの表現として構図や撮影技術、レタッチで個性を出していく方法もあるが、これだけでは不十分だ。

 空を入れ替えたり、ありもしないものを簡単に追加したり、ものの大きさを変えたりすることはいとも簡単だ。それらは表現の一部であり全否定されることではない。

 けれども、技術が進めば進むほど、一枚の写真をパッと見せられ、すぐにその写真を評価することは難しくなるだろう。

 そこでオリジナリティを持つのは、物語なのだ。

 一枚の写真が誕生するに至る物語こそ、自分自身にしか得られない体験、誰にも真似できない究極のオリジナリティそのものである。

 写真の世界の競争は激化している。「自分らしさ」を表現するため、動画を取り入れる価値は十分にある。

 駆け出しに過ぎない小さなfotoshin channelに世間がどう反応するか。五里霧中の挑戦だが、私の冒険はどこへ向かうのか。美しい自然と出会いつつ、その感動をどう表現し、伝えていくのか。楽しみで仕方ない。