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千数百年の時を超え川上弘美の新作に「転生」

古典資料は現代芸術とつながる

有澤知世 神戸大学人文学研究科助教

誰でもアクセスできる「生きている」古典資料

国文学研究国文学研究資料館で研究者たちと資料を見る、小説家の川上弘美さん(右から3人目)

 「江戸時代の絵画や読み物を研究しています」

 そう自己紹介すると、よく「古典苦手だったんだよね」という反応がかえってくる。時には関心を示してくれる人や、「古い物事を学ぶのは大切ですね」といってくださる人もいるが、多くの人は、古典の研究と、現代社会とは縁のないことのように感じているようだ。

 しかし、文学研究や古典の世界は、本当に現代社会とかけ離れたものなのだろうか。

 古典は、21世紀を生きる私たちの生活や感性と繋がっている。現代、そして未来を考えることや、新たな芸術を創造することに結びつく、「生きている文化」なのだ。

 それを、多くの人に実感してもらいたい。そして、さまざまな分野で活躍している人たちと一緒に、古典を通して現代に向き合いたい。そのために私は、「国文学研究資料館(通称・国文研)」(ロバート キャンベル館長)で「古典インタプリタ」として働いている。インタプリタとは「翻訳者」のことで、古典の研究の成果や、その魅力をわかりやすく伝えるのが役割。聞き慣れないと思うが、国文研で2017年秋に生まれた新しい仕事だ。

 国文研は、東京都立川市にある大学共同利用機関法人である。

 ここでは半世紀にわたり、明治時代よりも前に日本で「作られた本」を調査、収集している。「作られた本」と書いたのは、印刷されたものだけではなく、人の手によって写されたものも多くあるからだ。

 国文研ではこれらを「古典籍」と呼んでいる。

 古典籍は国内外の各地に存在する。それらを広く求め、調査をし、一点ずつ全文撮影を行った上で、その調査結果やデータを公開すること、そしてその成果を活用した共同研究を行うことを、国文研はミッションとしている。館内の892平方メートルに及ぶ大きな書庫には重要文化財をふくむ実物の古典籍が約22000タイトル所蔵されており、さらにマイクロフィルムにして保管している画像のタイトル数は約280000点に及ぶ。

 所蔵されている原本の多くは、利用登録をした上で必要な手続きを行えば、館内にある閲覧室で見ることができる。また、国文研が古典籍の情報や画像を公開しているデータベースには、世界中からアクセスすることが可能だ。

 国文研は、日本のあらゆる文学資源を集め、学びたい人には誰にでも開かれた研究機関なのである。

国文学資料国文学研究資料館の閲覧室の書棚

日記も旅も料理も……「古典籍」って幅広い

 ひとくちに古典籍と言ってもその内容は様々だ。物語、和歌、俳諧、日記、歴史、地図、旅行、医学、料理、旅行、服飾など多岐にわたる。

 ひとつひとつの「本」に、文字や絵で、我々の祖先の知恵や教訓が、あるいは普遍的な欲求や不安、哀しみ、歓び、生と死がつづられている。また、それぞれの「本」が、大切に受け継がれ、もしくは波乱万丈な道のりを経て、国文研までやってきた「物語」も背負っている。

 例えば、書物の持主が、自分の蔵書であることを示すために捺(お)す蔵書印から、その本が持つ「物語」を垣間見ることができる。普通は自分や文庫の名前が分かるような印が捺されるのだが、中には「本を海に落としてしまったことを戒めるための印」や「戦火から免れたことを記す印」等がある。本に対する所蔵者の思い入れを込めた蔵書印は、デザインが面白いのは勿論のこと、かつてその書物を愛した人がいたこと、そしてそれが時を越えて伝わってきたことを実感させてくれる。

 これらの集合体は、日本人の、そして人間のアイデンティティと歩みを解き明かしたり、支えたり前進させてくれたりする、豊かな文化的財産なのである。

 国文研に集積された、この大きな「知」を活用しているのは、いまのところ日本文学の研究者が大半だ。でも、もっと幅広い人たちにもこの「財産」に触れ、役立ててほしい。たとえば、別の分野で活躍する人たちが触れると、どのような化学変化が起きるだろうか――。そんな想いで2017年10月から始まったプロジェクトが「ないじぇる芸術共創ラボ ―アートと翻訳による日本文学探索イニシアティブ― 」だ。

国文学研究「ないじぇる芸術共創ラボ」のロゴマーク

 「ないじぇる」とは、国文研の英語名称:National Institute of Japanese Literatureの頭文字「NIJL」をひらがな読みさせたものだ。

 このプロジェクトの目標は、国文研の「知」を開放し、異なるフィールドでも積極的に古典籍を発見、活用してもらうことだ。具体的には「アーティスト・イン・レジデンス(AIR)」、「トランスレーター(翻訳家)・イン・レジデンス(TIR)」を実施している。

 AIRというのは、一般的に、芸術家がある場所に一定期間滞在(レジデンス)して、集中してリサーチや創作に取り組むことだが、国文研には今のところレジデンス施設がないため、定期的に来館してもらうスタイルをとっている。ここでは、古典籍を介して、芸術家や翻訳家と研究者がワークショップを重ね、ともに新たな文化的価値を創り出す活動をしている。研究機関でのTIRは世界でも例のない取り組みのようだ。

 私が就いている「古典インタプリタ」という職も、このプロジェクトのために新設された。

 「ないじぇる」のAIRには、スタート当時から、川上弘美さん(小説家)、長塚圭史さん(劇作家、演出家、俳優)、山村浩二さん(アニメーション作家)といった、各分野の第一線で活躍するクリエーターが参加してくれている。またTIRには“One Hundred Poets, One Poem Each” (『英訳・小倉百人一首』)などで知られるピーター マクミランさんが同じく開始当初から参加している。さらに2018年7月からは梁亜旋(りょう・あせん)さん(現代芸術家)、同年10月からは松平莉奈さん(日本画家)という新進気鋭の若手アーティストも加わった。

国文学資料(右から)ロバート キャンベル国文学研究資料館長、「ないじぇる芸術共創ラボ」参加メンバーのピーター マクミランさん。山村浩二さん、長塚圭史さん、筆者

 「ないじぇる芸術共創ラボ」のロゴは三つの木がモチーフになっている。これは古典籍の森をイメージし、木はそれぞれ、古典籍、AIR・TIR、それを繋ぐ古典インタプリタを象徴している。そして、研究者コミュニティ・古典籍と現代社会とを、古典インタプリタが繋ぐという意味を込めたモチーフでもある。

平安貴族は夫婦で食事をする?

 レジデンスプログラムでは、まず参加者が何に関心を持っているのかを探り、国文研の内外からその分野に詳しい研究者を呼んでワークショップを設定する。そこでは、豊富な古典籍を間に挟んで、参加者と研究者が、互いの専門知と想像力をもって自由な議論を重ねてゆく。時には身体を動かしたり、古典籍の複製本を作ったり。様々な発想が刺激となってテーマへの理解が深まり、新しい芸術が生まれてくる。

 そうしたワークショップをコーディネートしてプログラムを運営しつつ、その模様をウェブサイトやSNSで発信したり、成果を伝えるイベントを企画したりするのが、私、古典インタプリタの役目となる。

国文学研究「伊勢物語」の資料を見る川上弘美さん

 ワークショップは興奮の連続だ。

 たとえば川上弘美さんは、2018年初めから、雑誌「婦人公論」に「三度目の恋」という小説を連載している。主人公は現代を生きる女性・梨子だが、作中には明らかに、あるいは分からないように、モチーフになっている「伊勢物語」のさまざまなエピソードが登場する。

 川上さんはワークショップの中で、平安文学の専門家に、普通の辞書や解説には書かれないような、当時の生活や文化の詳細についてたずねている。

 たとえば、平安時代の貴族の夫婦は一緒に食事をすることがあったのかどうか。恋人の許へ訪れた翌朝、男性はどこから出勤するのか。

 こういった質問に対して、研究者は作品の細部や絵画資料などから的確な用例を示し、川上さんへわかりやすく解説する。ワークショップでは、当時の日記や物語には男女が食事を共にする描写はほとんど見られないものの、平安時代に書かれた「落窪物語」には、夫婦であれば同室で食事する様子や、宮仕えしている身分であれば、主人の下がりものを調理しなおして夫婦で食べる様子が描かれていることが示された。

 川上さんは、「(昔のことのなかで)一番分からないのは生活の細部で、それが分かった時、小説が書けるという手ごたえを感じました」と語っている(インタビュー『三度目の恋』執筆秘話 ―『伊勢物語』のかかわりについて ―) 

国文学研究「伊勢物語絵巻」(部分、国文学研究資料館蔵)

研究を濃縮し、想像し、飛躍する

 もちろん、ワークショップでの学術的な検証から得た情報が、そのまま小説に取り入れられているわけではない。一番濃いエッセンスは何か、どこを活かせばより想像が膨らむのか検証され、それが川上さんの中で膨らみ、削られ、飛躍して、小説になってゆく。

 ワークショップでは、時に、研究者も一緒に「業平のことを女君は何と呼ぶのか。それを現代に置き換えると何が自然か」「夫が他の女君の許へ通っている時、妻はどのような気持ちでいるのか」などを考える。

 私にとっては、それが大変新鮮だった。研究者は基本的に、原典から離れることができない。論文では、原典に忠実に、誰もが検証し直すことができるように、論証の手順を明らかにしておく必要がある。しかしワークショップでは、しばしば「飛躍すること」が大事になる。これも古典と向き合うひとつの方法か。そんな発見もしている。

 このように、日々私自身も学び、考えながら、「古典インタプリタ」として、古典籍と社会の橋渡し役を務めている。

 私がこの耳慣れない「古典インタプリタ」になったのはなぜか。それは次回お伝えします。きっかけは「仲居のアルバイト」と「不真面目の研究」です。

山村浩二 新作短編アニメーション「ゆめみのえ」完成試写会

国文学研究山村浩二さんのアニメーション「ゆめみのえ」のワンシーン

 「ないじぇる芸術共創ラボ」に参加している山村さんの新作「ゆめみのえ」の完成試写会が8月23日19時から、東京・渋谷のユーロライブで開催されます。18時から有澤さんによるプレトークもあります。
 「雨月物語・夢応の鯉魚」に想を得た、10分のアニメーション。日本語版と英語版を両方とも上映し、その後、山村さん、日本語版ナレーションの長塚圭史さん、英語版の翻訳とナレーションを務めたロバート キャンベルさん、国文学研究資料館准教授の木越俊介さんによるトークセッションがあります。

 参加無料。事前申込制で先着120人(定員に達し次第、締切り)。
 プレトークの定員は50人です。
 申し込み・問い合わせはメールで nijl_arts_initiative@nijl.ac.jp
 件名を【ゆめみのえ】(申込者名)とし、本文に、氏名(ふりがな)、住所、電話番号を明記。プレトークにも参加する場合は「プレトーク参加希望」と記入を。

     主催:国文学研究資料館  協力:朝日新聞「論座」