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ゴーモン特集『顔のない眼』は怪奇幻想映画の絶品

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』(1960)ジョルジュ・フランジュ監督『顔のない眼』(1960)

 今回は、特集上映「ゴーモン 珠玉のフランス映画史」(「YEBISU GARDEN CINEMA」)のラインナップ中、極私的にはベスト・オブ・ベスツの1本である、ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』(1960)を取り上げたい。映画史上にも類を見ない、残酷なリアリズムと耽美的シュールリアリズムが絶妙に融合した、怪奇幻想映画の金字塔だが、女性の顔の整形手術というモチーフを、恐怖、美しさ、哀切さを綯(な)い交ぜにして描き切ったフランジュの底知れぬ才能に、文字どおり震撼させられる。

 そして名カメラマン、オイゲン・シュフタン(独)によるモノクロ映像の底冷たい感触が、これまた何とも素晴らしい。したがって『顔のない眼』を、ホラー映画のカルト的傑作などと呼んではなるまい。この映画は、残虐さをこれでもかと大盤振る舞いする近年のホラーとは無縁の、人間(私やあなた!)に取り憑いた宿命的なエゴイズムを鋭くえぐり出す、怪奇メルヘン映画の絶品なのだ。

――高名な医師ジェネシュ博士(ピエール・ブラッスール)の愛娘、クリスティーヌ(エディット・スコブ)はある日、交通事故に遭い、両目以外の顔面を失う。博士はクリスティーヌの顔を元通りにするため、美貌の助手ルイーズ(アリダ・ヴァリ)に若い女性を誘拐させ、彼女らの顔の皮膚を切り取って移植手術を試みる(顔の皮膚を切除されたのち、犠牲者たちは水死体で発見されるが、死体遺棄もルイーズの仕事だ)。……その恐ろしい顛末は、ぜひともスクリーンで見届けていただきたいが、手術シーンの息詰まるサスペンスはもちろんのこと、クリスティーヌのつけたマヌカンのようなゴム製の白いマスクの不気味さ――うがたれた二つの穴から両目がのぞいている――、暗い地下室の檻から躍り出る実験用の猛犬の群れの恐怖、若い女性の死体が引きずられていく冬の河原にたちこめる冷気の肌触り、ラストで鳥かごから何羽もの白い鳩を解き放ち、森の中へと夢遊病者のような足取りで消えていくクリスティーヌの物悲しい姿、そして、ロベール・ブレッソン監督の映画を連想させる、つぶやくように低い声でしゃべる、ほとんど無表情な役者たちの抑制されたセリフ回し……などなどディテールの強度が尋常ではない。

 また、誘拐され顔の皮膚をはぎ取られ、包帯で両目以外の顔の部分をぐるぐる巻きにされたジュリエット・メニエルが、難を逃れようとして邸宅の2階の窓から転落し絶命する場面では、前記ルイ・フイヤード監督『吸血ギャング団』の、黒い薄絹の肉襦袢に身を包んだ女賊イルマ・ヴェップに扮したミュジドラのイメージが、メニエルの姿に重なる(釣り気味の眼光鋭い目が特徴的な美人女優、ジュリエット・メニエルは、クロード・シャブロル監督の『いとこ同志』(1959)、『青髭』(1963)にも出演している)。

 さらに、クリスティーヌに短刀で喉を突き刺されたルイーズ/アリダ・ヴァリが、目を見開いたまま上半身をがくっと直角に折り曲げて息絶える瞬間も、過度の残酷さが減殺されたフランジュ美学=様式美が冴えわたり、目を奪われる。

ドイツ表現主義、アメリカ怪奇映画のテイスト

 これまでに我が国で書かれた本作についての最も充実した批評/オマージュは、おそらく山田宏一の「ジョルジュ・フランジュ:詩的恐怖映画――『顔のない眼』」(『山田宏一のフランス映画誌』所収、ワイズ出版、1999、320―324頁)だろうが、そこで山田も言うように、本作の見事なモノクロ映像の作り手、前記オイゲン・シュフタン(独)は、もとより光と影のハイコントラストを最大限に生かした作品――ドイツ表現主義映画『メトロポリス』(フリッツ・ラング監督、1926)、フランスの“詩的リアリズム”映画、『霧の波止場』(マルセル・カルネ監督、1938)、アメリカ映画『リリス』(ロバート・ロッセン監督、1964、傑作!)など――の撮影を手がけた異能である。

『ジュデックス』(1917)を1963『ジュデックス』(1963)のポスター https://en.wikipedia.org/wiki/Judex#/media/File:Judex1963poster.jpg
 したがってフランジュの『顔のない眼』に、ドイツ表現主義ふうのかっちりとした幾何学的な造形(フリッツ・ラング作品を思わせる、サスペンスフルに開閉する鉄の扉、禍々(まがまが)しい処刑台めいた手術台、黒光りする車のボディに映った冬枯れの木々の梢など)や、モノクロ・フィルムの醸す白黒の強烈な対比が顕著なのは、うなずける。しかし、その一方で本作の作風は、サイレント時代の連続活劇の名匠であった前記ルイ・フイヤード(仏)の、怪奇色あふれる犯罪映画をもほうふつとさせるのだ(フランジュは、フイヤードの怪奇的な連続活劇『ジュデックス』(1917)を1963年にリメイクしている<超傑作!>し、また、やはりフイヤードの連続活劇、前記『ファントマ』を連想させるテレビ・シリーズ、『顔のない男』(製作年不詳)を撮っている)。

 私見だが、そうしたジョルジュ・フランジュの映画的ルーツによって、彼の映画には、重厚なドイツ表現主義映画には乏しい優雅さ、艶麗さ、洒脱さが加味されているように思われる。ところで山田宏一は、『顔のない眼』の幻想美・怪奇美の源泉には、フランス映画の伝統ではなく、ドイツ表現主義映画の傑作『吸血鬼ノスフェラトゥ』(F・W・ムルナウ監督)の系譜があるとする、詩人・映画監督のジャン・コクトーの説を紹介しつつも、1920年代から30年代に至るアメリカのユニヴァーサルの怪奇映画、たとえばトッド・ブラウニング監督『知られぬ人』(1927)、あるいはRKOの1940年代のロバート・ワイズ監督『死体を売る男』(1945)、マーク・ロブスン監督『恐怖の精神病院』(1946)を思わせるテイストをも、『顔のない眼』に見て取っている。なるほどと思わせる、非常に興味深い指摘だ。

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