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荒川・四つ木橋朝鮮人虐殺追悼式に参加して

在野の研究者や一般市民が虐殺の記録を残し、追悼してきた

中沢けい 小説家、法政大学文学部日本文学科教授

四つ木橋近くにある追悼の碑=2019年9月7日、筆者撮影

今年も都知事は追悼文を送らず

 1923年の関東大震災から今年は96年になる。9月1日、墨田区の横網町公園では例年のとおり犠牲者の慰霊法要と、朝鮮人虐殺の追悼式が執り行われた。

 小池百合子都知事が朝鮮人虐殺の追悼式に追悼文を送らなくなって今年で3年になる。小池知事に追悼文を求める署名に私も署名した。

 私自身は、追悼文を送るだけではなく、知事自身がこの追悼式に出席すべきだと考えている。東京が経験した惨事の中でも、朝鮮人虐殺は偏見と憎悪によるヘイトクライムとして特筆すべき事件であり、今後、ますます東京に居住する外国人が増えるのであれば、このような事件を再び起こすことがないように祈る姿を都知事が見せることは重要な意味を持つ。知事が祈る姿は警察官をはじめとして、治安を守る人にとってひとつの規範を示すことになる。

 しかし、残念なことに今年も都知事による追悼文は寄せられなかった。都知事が追悼文を送ることを見合わせた3年前から、追悼式と同じ時間帯に同じ横網町公園で朝鮮人虐殺はなかったと主張する人々主催の「追悼式」も行われている。「追悼式」の名称は使っているが、虐殺そのものを否定する嫌がらせ以外のなにものでもない。惨事を繰り返さないために指導者が範を示すどころか、小池知事が追悼文を出さなくなったために惨事を否定する人々を勢いつかせている。

日本社会にあふれる「嫌韓」

 さらに今年、事態はもっと悪い方向へ進んだ。日本政府が徴用工問題を経済対応に発展させ、7月には輸出規制強化、8月に入ってホワイト国からの除外という措置に出たのに対抗して、韓国はGSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄を通告した。以後、テレビ、週刊誌に嫌韓報道があふれる。テレビコメンテイターのヘイトスピーチもあり、週刊誌の見出しはひところの在特会によるヘイトスピーチデモを連想させるものもあった。

 また、開催中のあいちトリエンナーレでは展示された「平和の少女像」(従来、従軍慰安婦の少女像とされてきた像の名称)を巡り、河村たかし名古屋市長の発言を皮切りに、電話やファクスで展示中止を求める脅迫が殺到し、放火予告で逮捕者が出るという状況になっていた。行政のトップがヘイトスピーチ、ヘイトクライムを誘発する発言をしたのである。あいちトリエンナーレが受けた電話による多数の抗議はネットスラングで「電凸」と呼ばれる。あいちトリエンナーレ検証委員会はこの電凸の代表的なもの4件の音声を公開している。そして電凸は「ソーシャルメディア型のソフト・テロ」と表現している。
9月に入ると韓国大使館へ脅迫状が送られるという事件も報じられた。日頃は政治に興味関心の薄い人の口から「文在寅大統領は反日なのでしょ」と言われて驚くこともしばしば経験した。飲み屋などで声高に暴言を吐く人もいたようで、諫めるつもりがけんかになったという嘆きも聞いた。朝鮮人虐殺は遠い昔のヘイトクライムではないと感じられる夏だった。

朝鮮人虐殺は過去の出来事ではない

 現在の日本で陰惨なヘイトクライムは実際にすでに起きている。2016年に起きた相模原障害者施設殺傷事件は定義通りのヘイトクライムだ。また北朝鮮との関係が緊張するたびに朝鮮学校へ通う女生徒のスカートが切り裂かれるなどの事件もこれまで繰り返されてきた。それをヘイトクライムと意識はしていなかったが、振り返ってみれば差別による憎悪喚起から起きる犯罪であり、紛れもないヘイトクライムだった。韓国大使館に銃弾が送り付けられた事件もこれに数えてよいだろう。1923年の関東大震災の混乱の中で起きた朝鮮人虐殺は、決して過去の出来事ではない。現在、そうした不安を覚える人も少なくないはずだ。

追悼式で朝鮮の音楽を奏でる人たち=2019年9月7日、筆者撮影
 あいにく9月1日は八戸に出かけていたので横網町公園での朝鮮人虐殺の追悼式は参拝できなかった。が、9月7日の四つ木橋の荒川河川敷で行われた追悼式には出かけることができた。京成線の八広駅を降り、荒川土手に登ると、四つ木橋の下に集う人々の姿が見えた。太平洋上に発生した台風15号の影響はまだ東京には及ばず、よく晴れていた。そして、川風は涼やかな日だった。出席者は300人ほど。杖鼓(チャンゴ)太鼓(プグ)ケンガリ(鐘)それに独特の音色のテピョンソ(チャルメラの仲間だそうです)が奏でる音楽が河原に流れる。河原で朝鮮音楽を奏でる人々の赤、黄色、青、黒、白の衣装が、なにか夢幻を誘う光景だった。

 河原に降り注ぐ光に目を細めると、私はなぜ朝鮮人虐殺事件を知っていたのだろうと疑問がふと湧いた。というのは、朝鮮人虐殺事件は正式な記録が乏しく、多くはアカデミズムに所属しない郷土史家や小中学校、高校の先生などによって資料が集められたことを知るようになったためだ。

四つ木橋の追悼式は小学校教員の調査が端緒

 毎年9月の第一土曜日に行われている四つ木橋の荒川河川敷追悼式も、もとは小学校教員だった絹田幸恵さんの調査が端緒になっているそうだ。荒川放水路の歴史と調べるうちに朝鮮人虐殺の証言に行き当たる。1970年代のことだと西崎雅夫「関東大震災朝鮮人虐殺の記録」(現代書館)の序文に顛末が記されていた。四つ木橋あたりで大勢の朝鮮人が殺され、その遺体は河原に埋められたという証言をもとに1982年9月に遺骨を探す試掘が行われたが、遺骨を見つけることはできなかった。後に河川敷に埋められた朝鮮人の遺体は、警察の手で密かに発掘、移送されたことが判明した。これは当時の日本政府の方針が背景にある。「速やかにその遺骨は不明の程度に始末すること」と朝鮮総督府警務局の書類に記載されている。政府によって朝鮮人虐殺事件は意図的に隠蔽された。

 同じ7日に横浜でも朝鮮人虐殺事件の追悼式が行われていた。横浜でも事件の詳細を調べたのは、民間の篤志家であることを後藤周さんからお聞きした。虐殺事件は横浜から始まり、

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