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必見!『帰れない二人』――時の流れと人の心

藤崎康 映画評論家、文芸評論家、慶応義塾大学、学習院大学講師

 ジャ・ジャンクー監督の『帰れない二人』が描くのは、17年間(2001~2018)におよぶ一組の男女のラブストーリーであり、その歳月のなかで劇的に変貌をつづけた高度経済成長期の中国の姿である。そして本欄のインタビュー(「『帰れない二人』のジャ・ジャンクー監督に聞く」2019・09・06)でジャ監督が述べているように、本作のメインテーマは、時の流れのなかで変化する男女の愛のあり方だ。

 実際、3つのパート――3つの異なる時代と場所を舞台背景とする――からなる、17年にわたるヒロイン、チャオ(チャオ・タオ)と恋人のビン(リャオ・ファン)の関係は、青春時代の蜜月と数年間の離別を経て、愛憎こもごもの屈折したものに変じてゆく。畢竟(ひっきょう)ジャ監督は、そうした二人の紆余曲折する“腐れ縁”の物語を、チャオのプライヴェートな感情に焦点を合わせつつ、背景に21世紀の中国社会の激変を映し込む、いわば重層的な手法で、メロドラマティックかつ叙事詩的に紡いでいく。

裏社会のコミュニティ「江湖」で

<「第一部」 2001年 山西省の都市、大同(ダートン)>
 当時の中国は、北京オリンピック開催決定やWTO(世界貿易機関)加盟でにわかに賑わっていたが、炭鉱を取り仕切り、ディスコや賭博場のある遊技場を営む裏社会のコミュニティ、「江湖(こうこ)」で暮らすチャオとその恋人ビンは、不動産業者の地上げを手伝うなどして生活の糧(かて)を得ていた(ヤクザ者のビン/リャオ・ファンを筆頭に、「江湖」の男らの多くは、迫力のある物騒な顔つきをしているが、「江湖」については後述)。

 ある日、二人の乗った車がバイクに乗ったチンピラの集団に襲われ、ビンは路上で殺されかけるが、チャオが拳銃を空に向かって発砲し、ビンは一命をとりとめる。しかしチャオとビンは逮捕され、チャオは銃の不法所持の罪で5年の禁固刑を科せられる。ビンは1年で出所したが、チャオには会いに来なかった……(ビンが襲撃されるところは、“香港ノワール”の様式化されたヒロイックなスタイルとは異なる、ヒステリックで得体のしれぬ殺気が沸き立つタッチで描かれるが、ビンらの乗った車にチンピラどものバイクが並走し追い抜いてゆくショットの緊迫感は、北野武映画を連想させる)。

『帰れない二人』 チャオチャオ(左、チャオ・タオ)と彼女の恋人ガオ・ビン(リャオ・ファン) (c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved『帰れない二人』 (c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved

 なお、本作の原題は「江湖儿女」だが、ジャ監督によれば、“儿女”という言葉は、愛し合い憎み合う男と女を暗示しており、故郷を持たない流浪の民の居場所である裏社会、ないしヤクザ社会を表す“江湖”という言葉は、同時に“真に危険な世界”“激しい感情の世界”をも意味するという(パンフレット)。

 とするなら本作が描くのは、つまるところ、ある程度は社会的現実の反映でありつつも、何よりフィクション映画の題材として恰好な、もっといえば映画にしか描けない、あるいは映画の中にしか存在しえない、愛憎や裏切りが渦巻く<法の外/アウトロー>の世界を生きる男女のドラマにほかなるまい(映画の「リアリズム=本当らしさ」を増幅するために、石炭価格の暴落ゆえに山西の炭鉱を去った人々が新疆(シンジャン)に流れ石油採掘に従事する、といった現実への示唆は作中に周到に挿入されるが、そのことと本作がフィクション映画であるということは、まったく矛盾しない。むろん、私たちは本作を劇映画として堪能しながらも、さまざまな現代中国の――映画外の――現実を学ぶわけだが)。

 ジャ監督はまた、この大同のパートでは、裏社会=「江湖」における新しい世代の台頭と、彼らに対して旧世代が抱く危機感を、チンピラ/新世代によるビン襲撃の場面などで描きたかったと述べ、さらに、ビンがチャオに拳銃の撃ち方を教える、大同郊外の古びた炭鉱がある火山地帯の荒野は、西部劇の舞台のようでもあると語る(同上、ジャ・ジャンクーの卓越した空間描写については後述)。

 要するに、都市の周縁地域に残る伝統的な「江湖」の世界は、近代化・開発の波に抗するような昔ながらの義理人情を核とする、諍(いさか)いや反目は起こるが基本的には相互扶助のコミュニティである運命共同体である。それに対して、現代の市場経済における弱肉強食の(仁義なき)自由競争――格差を拡大し勝ち組と負け組を生み出す経済至上主義――の担い手である大企業などは、「江湖」とは違い、利益追求のみを駆動原理とする、しばしば成員を疎外する無味乾燥な利害共同体だが、そこでは、人は、競争を介してしか他人と関われない(以下にみるように、「第二部」の奉節では、市場経済システムにおける勝ち組である嫌味な金持ちの男が登場する)。

<小悪党>として振る舞う「江湖」の女

<「第二部」 2006年 ダム完成によってその一部が水没間近の長江(揚子江)・三峡地域の奉節(フォンジェ)>
 出所したチャオはビンを探して、三峡ダム建設で失われる長江流域――約130万人が移住を余儀なくされ、地域社会は無残に消失することになる――へと客船で向かう(力作『長江哀歌(エレジー)』(2006)を引き継ぐような、灰緑色に濁った悠揚たる長江の流れ、その大河に浮かぶ船や桟橋を行き交う人々、はるかな対岸のさらに彼方にそびえる黒ずんだ山々、その上空にひろがる瑠璃(るり)色の空や青白い雲の筋を映す広大な風景ショットなど、いわば殺風景すれすれの鈍い抒情を醸す<ジャ・ジャンクー的情景>が、絶句するほど素晴らしい)。

(c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved(c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved

 ……やがてチャオは、ビンには新しい恋人がいることを知る。しかもそれは、知人の実業家ジャードン(ディアオ・イーナン)の妹、ジャーイエン(キャスパー・リャン)だったが、彼女は「人の感情は変わって当然」と平然と言い放ち、チャオを動揺させる。それでもチャオは、「ビンと直接話す。私と彼の問題だから」と返し、その場を去る。チャオの気丈さ、ビンへの強い想いを、そして人の世の無常/無情を、不意打ちのように示す名シーンだが、この場面のメランコリック(沈鬱)なトーンは、直後の切れ目のないワンシーン・ワンカットの場面で、チャオが再会したビンと交わす不活発な会話によって、さらに増幅される(チャオは、カネも地位も失い鬱屈したビンに、大同に帰ろうと言うが、彼は帰れないと答え、結局、二人は再び別れる)。

(c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved(c)2018 Xstream Pictures (Beijing) - MK Productions - ARTE France All rights reserved

 ところで、活劇感あふれる「第一部」とは対照的な「第二部」は、とはいえメランコリック一辺倒ではなく、奇妙な活気さえ帯びている。それは、「江湖」の義侠心を胸に秘めつつも経済優先の世に順応すべく、次第にタフになってゆくチャオの言動によるものだが、もともと肝の据わった「江湖」の女である彼女は、この2006年のパートでは、さらにしたたかな生活術、いわば小悪(しょうあく)を身につけている(まあそれも「渡世/処世」の一手段だろうが)。

 船上でキリスト教徒を装った女(ディン・ジャーリー)に財布と身分証を盗まれたチャオは、

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