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『去年マリエンバートで』、主演・セイリグの素顔

押し付けの女性像を拒否したフェミニスト

林瑞絵 フリーライター、映画ジャーナリスト

 日本では10月25日から、アラン・レネ監督の『去年マリエンバートで』(1961)が4Kデジタル・リマスター版でリバイバル公開される。ヨーロッパ映画に興味を持ち、その豊かな森に足を踏み入れたなら、すぐにその名を聞くことになるヌーヴェル・ヴァーグの金字塔的作品だ。製作から半世紀以上がとうに流れたが、今も色褪せぬ輝きを放つ。原作・脚本はアラン=ロブ・グリエ。“ヌーヴェル・ヴァーグ”と“ヌーヴォー・ロマン”の幸福な結婚の落とし子のような実験的な作品である。

 舞台は幾何学的な庭園が広がるバロック風城館。着飾った上流階級の人間が集い、劇やダンス、ゲームに興じている。カメラが焦点を合わせるのは名もなき男X。彼はやはり名もなき女Aを追いかけ話しかける。「去年マリエンバートで会いました」「会っていません」「約束をしました」「覚えていません」。堂々巡りの問答。虚実や夢、記憶が交錯し、見る者を挑発する。入り込んだら出てこられぬ怪しくも美しい映画の迷宮だ。

 ここで謎めく貴婦人に扮しているのが、デルフィーヌ・セイリグ(1932-1990)だ。この記事では今こそ注目されるべき彼女に焦点を当ててみたい。

『去年マリエンバートで』(c)1960 STUDIOCANAL - Argos Films - Cineriz4Kデジタル・リマスター版でリバイバル公開中の『去年マリエンバートで』 (c)1960 STUDIOCANAL - Argos Films - Cineriz

 セイリグは1960年代から80年代にかけ、主にヨーロッパで活躍したスイス系フランス人女優。『去年マリエンバートで』の他にもジョゼフ・ロージー『できごと』、フランソワ・トリュフォー『夜霧の恋人たち』、ジャック・ドゥミ『ロバと王女』、ルイス・ブニュエル『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』、マルグリット・デュラス『インディア・ソング』など、数々の名作の出演で知られる。

 高名な考古学者だった父の仕事の関係でベイルートに生まれ、幼少期はヨーロッパを転々とした。父の祖国フランスに戻り20歳で舞台女優としてデビューを果たすも、名門の仏国立民衆劇場(TNP)の入団には失敗。ただし、失敗とはいっても演技ができなかったわけではない。セイリグ特有の「ヴァイオリンの音色に似た声」(共演が多かった名優マイケル・ロンズデールによる表現)が、声を張るのが主流の古典的な演劇界にそぐわないと判断されたのだ。

 その後はアメリカに渡り、アクターズ・スタジオで修行。アラン・レネが『去年マリエンバートで』でセイリグを抜擢したのは、旅行先のニューヨークで、イプセンの『民衆の敵』の舞台に立つ彼女を偶然目撃したのがきっかけ。のちにレネとセイリグは長い間愛人関係にもなったから、この時、レネの一目惚れも多少はあったのかもしれぬと、勝手に妄想も膨らむ。

“神秘的な”というイメージとは違った行動派

 さて、『去年マリエンバートで』は1961年にベネチア映画祭の最高賞である金獅子賞に輝いた。無名女優が一夜にして世界的に名を知られるようになった瞬間だ。劇中の洗練されたシャネルのドレスの数々は、セイリグの魅力を一層引き立てた。ここで作品の成功とともに、彼女にぴったりと貼り付いたのが、「美の化身・美のアイコン」ともいうべき、神秘的かつ理想化された女性のイメージであった。

『去年マリエンバートで』撮影中のデルフィーヌ・セイリグ『去年マリエンバートで』のデルフィーヌ・セイリグ=LaM(リール・メトロポール近現代とアール・ブリュット美術館)の展覧会で 撮影・筆者

 だが、素顔のセイリグはそのイメージとは全く違っていた。作品が彷彿させるイメージと当の本人の人となりが、これほどかけ離れた人も珍しい例かもしれない。現実の彼女は女優の仕事を精力的に続けながらも、女性解放運動のために堂々と声を上げた、泣く子も黙る勇敢なフェミニストであった。

 60年代から70年代にかけてのフランスは、中絶禁止法の廃止を求める声とともに、女性運動が大きな盛り上がりを見せた時期に当たる。セイリグは自身のキャリアや“神秘的な美貌の女優”というイメージが損なわれることなどは全く気にせず、いや、むしろ男性が押し付けた勝手な女性像を積極的に打ち消すかのように、運動に深くコミットしていった。

 さらに当時出回ったばかりのビデオカメラを手にして、

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