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中村雅俊の登場と“終わらない青春”

太田省一 社会学者

 前回、学園ドラマの歴史を振り返りつつ、そこから森田健作のようなアイドル的人気を博する若手俳優が生まれてきたことを述べた。今回は、その後の流れを追いつつ、学園ドラマとアイドルの関係について時代背景も絡めながら少し考えてみたい。

生徒化する教師~『飛び出せ!青春』の試み

 森田健作主演の『おれは男だ!』の成功により、一時停滞感のあった学園ドラマも活気を取り戻した。その余勢を駆るかたちで制作されたのが、日本テレビ系『飛び出せ!青春』(1972年放送開始)である。ただし、ここで主役は教師に戻った。新任教師・河野武役を演じたのは、やはりドラマでは新人の村野武範である。

 同番組の企画・プロデュースをした日本テレビ(当時)の岡田晋吉は、ここで学園ドラマの教師像を練り直した。岡田によれば、『青春とはなんだ』など初期には「一段上の立場から生徒をぐいぐい引っ張っていく『先生』がうけた」。だが1970年代になり、そのような「先生」は絵空事にしか見えなくなった。そこで岡田は、この『飛び出せ!青春』の先生には、「その階段を一段降りてもらって、『生徒と同じレベルの先生』になってもらおう」と考えた。若いだけでなく、「生徒と一緒になって悩んだり苦しんだりする『先生』」像を構築しようとしたのである(岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説――あるプロデューサーのテレビ青春日誌』、98頁)。

 たとえば、第14話「月光仮面は正義の味方!!」を岡田は象徴的な回として挙げている(同書、101頁)。

 ひとりの生徒が「月光仮面」と名付けた新聞をつくり、その紙面でクラスメートのちょっとした悪さを告発し始める。非難を浴び孤立する生徒を心配し、諭す河野。すると生徒は、今度は学校の外にある大きな悪を暴こうとする。ところが記事にしようとした悪事の張本人は、尊敬する自分の父親だった。正義感と家族への思いとのあいだで引き裂かれ、苦悶する生徒……。

 従来の学園ドラマであれば、ここぞとばかりに村野武範演じる河野先生が超人的な活躍をして生徒を窮地から救い出すに違いない。しかし、このドラマではそうはならない。河野は無力な自分を嘆き、「俺はお前に何もしてやれない。それが辛いんだ」と涙を流すのである。

 まさに、そこには「生徒と一緒になって悩んだり苦しんだりする『先生』」がいる。教師は生徒と同じ目線に立ってともに悩み、そして喜ぶ。いわば、教師は生徒化したのである。

 そうなったのも、生徒が主役の『おれは男だ!』の成功が直前にあったからこそのことだろう。そしてそのとき、学園ドラマのなかの学校は、上下関係のない誰もが平等な理想郷のような空間になる。このドラマに登場する「太陽学園」は、無試験で入れる全入制の高校という設定だった。しかも河野先生は、寮で生徒と起居を共にしていたりする。一見現実離れした話だが、放送当時は太陽学園への入学を希望する視聴者からの真面目な問い合わせが少なからずあったという(同書、101-102頁)。

日大明誠高「われら青春!」「飛び出せ!青春」ドラマのオープニングシーンで、毎回映った正門からの風景『飛び出せ!青春』『われら青春!』の舞台「太陽学園」のロケ地となった日大明誠高校(山梨県上野原市)

『われら青春!』は学園ドラマの到達点

 『飛び出せ!青春』は、青い三角定規の歌った主題歌「太陽がくれた季節」もヒットし、視聴率も好調だった。ここで学園ドラマのジャンルはますます揺るぎないものになったと言っていい。

 この『飛び出せ!青春』の世界をそのまま引き継いだのが、続いて制作された『われら青春!』(1974年放送開始)である。主人公である太陽学園の新任教師・沖田俊は、河野先生の大学の後輩という設定。演じたのは、やはり新人の中村雅俊だった。

 そこで描かれた教師像もまた、『飛び出せ!青春』が打ち出した“教師の生徒化”をさらに推し進めたようなものだった。

 先ほどふれた『飛び出せ!青春』の「月光仮面」の回では、河野先生は力になれない生徒のために泣いた。ただそこで泣くということは、本当の意味ではまだ教師と生徒は対等ではないということでもある。それはヒーローとしての無力感の表現であり、逆に言えば生徒と行動をともにするまでには至っていない。「まだ、『青春とはなんだ』の“ヒーロー先生”の影を受け継いでいた」と考えた前出の岡田晋吉は、この『われら青春!』では、「『先生』を『生徒』と同じレベルまで引き下げてしまおう」と目論む(同書、112頁)。

デビュー当時は「ジーパンにげた履き」がトレードマークだった=事務所提供デビュー当時の中村雅俊=事務所提供

 やはり岡田が例として挙げている第1話「学校より大事なこともある!!」は、そのコンセプトを凝縮したような内容だった。

 冒頭、沖田俊は転校生と間違われ、自らも友だち同士のように付き合いたいと生徒の前で宣言する。そして成績の悪い生徒を集めてラグビー部を結成。するとラグビー部員のひとりがお坊ちゃん学校のラグビー部員たちに襲われる事件が起こる。すると沖田先生は仲裁に入るのではなく、その生徒の助けに入り相手と喧嘩を始めてしまう。それが大問題になり、彼は赴任早々学校を辞めることになってしまう。

 悄然として駅のホームに佇む沖田先生。するとラグビー部の生徒たちが駆け付け、辞めないでくれと叫びながら向かいのホームからラグビーボールを投げて寄越す。感激しながらそれを生徒に返す沖田。そこから線路を挟んで走りながらのパスの交換が始まる……。

 よくお笑いのネタにもされた場面だが、そこには沖田先生が生徒の仲間であることが端的に表現されてもいる。なにもできない無力さを嘆くのではなく、たとえ無力であっても生徒と常に行動をともにする。そんな教師と生徒の関係性は、1960年代以来の学園ドラマのひとつの到達点だったと言えるだろう。

 そんな理想的教師像を演じた中村雅俊は、学園ドラマのアイコン的存在になった。と同時に、失敗や挫折を繰り返しながら自分も成長していく役柄を演じ続け、この時代ならではのアイドルになった。

中村雅俊が体現したモラトリアム

 中村雅俊の魅力は、繊細さとラフさが同居しているところにある。

 中村は、歌手としても多くのヒット曲を出した。そのきっかけとなったのが、『われら青春!』の挿入歌「ふれあい」(1974年発売)である。このデビュー曲は、オリコン週間チャートでなんと10週連続1位を記録し、レコード売り上げも100万枚を超える大ヒットになった。

 悲しみや空しさに襲われるとき、「あの人」にそばにいてもらいたいという内容の歌詞を、当時中村雅俊はアコースティックギターの弾き語りで切々と歌った。これもまた、以前ふれた野口五郎の「私鉄沿線」などと同じく、フォークの持つ繊細さを歌謡曲に取り込んで成功したケースと言えるだろう。

 ただそうした一方で、中村雅俊には昔懐かしい「バンカラ」を思い起こさせるラフさの魅力があった。

 そのイメージを決定づけたのが、1975年から1976年にかけて放送された日本テレビ『俺たちの旅』である。

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