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ドミンゴが大震災直後の日本で歌った「ふるさと」

東日本大震災から1カ月後の東京・NHKホールで熱唱。背景にメキシコ地震の経験が。

石戸谷結子 音楽ジャーナリスト

歌うプラシド・ドミンゴ ©堀田力丸

 「私は約束した場所には必ず行き、そこで歌ってきました。そして、いま、ここに居るのです」

 2011年4月10日、NHKホールで行われた「プラシド・ドミンゴ コンサート・イン・ジャパン」の公演を収録したNHKの番組冒頭で、ドミンゴ自身が語ったこの言葉がテロップで流れた。

2011年4月10日の奇跡

 2011年3月11日。東日本で起きた大惨事は、海外の人たちにも大きな衝撃を与えた。

 ちょうど来日していたフィレンツェ歌劇場は、フィレンツェ市長からの帰国命令により、予定を切り上げてすぐ帰国した。その3か月後6月のメトロポリタン歌劇場公演と、9月のボローニャ歌劇場の公演では、主役級の名だたるスター歌手が、揃って来日をキャンセルした。

 そんななか、東日本大震災からわずか1カ月も経たない4月7日、ドミンゴはマルタ夫人と13歳の孫娘を連れて成田空港に降り立った。「キャンセルという発想はありませんでした」と、彼はのちに語っている。

 4月10日、NHKホールでのコンサートで、ドミンゴは超満員の聴衆に盛大な拍手で迎えられた。オペレッタの名アリア「君はわが心のすべて」や「星は光りぬ」などテノールのアリアに加え、「祖国の敵」などバリトンのレパートリーやミュージカル・ナンバーなどを歌ったドミンゴは、鳴りやまない拍手にアンコールでこたえた。

 「1976年にこのホールで日本デビューしてから長い年月が経ちました。日本でまた歌える日が来てうれしい。この場に来てくださったことに感謝します。皆さんが辛い日々を送っているのを知っています。ですから皆さんの心と魂に贈り物をしたい」。

 マイクを持った彼はそう語り、「ふるさと」を日本語で歌い出した。

 1番、そして2番。途中から、会場の人たちも一緒に歌い出す。多くの人が涙をぬぐった。ドミンゴと一緒に来日したソプラノ、ヴァージニア・トーラも歌いながら涙を流した。最後は全員が立ち上がり、感動的なスタンディングオーベイションとなった。

 公演のあと、NHKテレビのために行われたインタビューで、ドミンゴは次のように語っている。

 「歌手とは人の心や魂に触れ、つかの間でも辛いことを忘れさせ、人を幸せにできる、素晴らしい職業です。人間の心に訴えかけること、それが私にできる唯一のことなのです」。

「ドミンゴの人柄を変えた」と言われるメキシコ大地震

 ドミンゴが東日本大震災に対し、ここまで強く心を痛めたのにはわけがある。

 1985年の9月19日、メキシコで大地震が発生、1万人もの人たちが亡くなった。なかでもメキシコ・シティでの被害が大きかった。これをニュースを知ったドミンゴは、公演を途中でキャンセルし、メキシコに向かった。

 彼はスペイン・マドリード生まれだが、8歳の時にサルスエラ(スペインのオペレッタ)の劇団を創った両親と共にメキシコ・シティに移住。成人するまでこの地で暮らしている。地震が起きた当時も、多くの親戚がこの地に住んでおり、いとこや叔父・伯母など4人が瓦礫の下敷きになって亡くなった。ヘルメットを被り、瓦礫を掘り起こして親戚を探しているドミンゴの写真が、テレビや新聞などで報道された。

 その後、オペラ公演を半年間にわたってキャンセルし、各地でチャリティ・コンサートを行い、数百万ドルを被災地に寄付している。2011年の日本公演のあとも、アメリカに帰ってから、日本に10万ドルを寄付した。

 メキシコ大地震のあと、「ドミンゴの人柄が大きく変わった」といわれる。ひとの心の痛みを知り、魂に寄り添う。「私が歌うことで、心にやすらぎを感じていただけたら。私は芸術の意義を信じているのですよ」。それが素顔のドミンゴなのだ。

3大テノールを日本に呼んだ夫妻

3大テノール(プラシド・ドミンゴ=右、ルチアーノ・パヴァロッティ=中央、ホセ・カレーラス)と寺島忠夫さん(ドミンゴの隣り)、悦子さん夫妻

 2011年4月7日、コンサートのために来日したドミンゴ一家を空港に出迎えた映像のなかに、寺島忠男氏と妻の悦子(よしこ)さんの姿があった。

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